弘前市内で撮影した藩政時代の町名が残る標柱を紹介します。藩政時代の町の様子は、鷹匠町のように現在でも町名が残されています。この由来を記した標柱が、市内あちこちの街角に立てられ当時を偲ぶことができます。 標柱は、昭和58年から平成8年にかけて順次設置。その裏には設置年月日が書かれています。長い間風雨に晒されたので、表面がボロボロになった標柱もあります。標柱は“富田の清水”を入れて、全部で42本あります。 これまで覚仙町の画像がなかったのですが、先日帰省した際に民家の脇に設置されていたので撮影しました。
上記の古い地図を見ると、城東地区(駅の東側)に町のないことが分かります。これは弘前駅の東口が無かったことと、街の中心部から外れて駅が建設されたことに依ります。跨線橋や地下道が発達するまで城東は街の発展から取り残されました。この地図で黄色以外の色が塗られている地域は、当時新しく町割りされたところです。 これに対して藩政時代に作られた地図では街の規模が更に小さくなり、弘前城本丸の周囲にだけ町があります。南側に見える池は埋め立てられ、南塘町の弘前大学医学部が所有する南塘グラウンドになりました。 |