■観測場所の天候![]() 皆既帯の最初は熱帯収束帯が居座るインドネシアの島々を通過するので、この地域では雲間からの観測となるでしょう。 Jay Anderson氏より抜粋した資料によると、 赤道をまたいで熱帯収束帯が居座るインドネシアの島々では雲量が多くてあまり観測に向かないことが分かります。 晴天率を求めるなら、ミクロネシア連邦の島々が最適です。 皆既帯付近で一番晴れやすい地域は米領ウェーク島ですが、99%の部分日食となってしまいます。 一番無難なのは、グアム島から船舶をチャーターしてマリアナ海溝付近の皆既帯に行くしかありません。 ミクロネシア連邦に属するヤップ州の島々には僅かながら皆既帯が掛かる環礁があります。 ここでは、皆既帯が通過する島と環礁について天候の概略と共に説明します。 ![]() ミクロネシア連邦は、太平洋のミクロネシア地域に位置するオセアニアの国家。 マリアナ諸島の南東、パラオの東、マーシャル諸島の西、パプアニューギニアの北ないし北東にあります。 地理的には、カロリン諸島と呼ばれます。首都は、ポンペイ島のパリキール。 ミクロネシア連邦は、フィリピンの東に浮かぶカロリン諸島に属する607の島があります。 島の範囲は東西に約3200km、南北に約1,200kmに渡って広がります。 熱帯雨林気候(Af)で年平均気温は26~28℃。年降水量は3,000mmを越え、夏に多く雨が降ります。 ![]() 住民はミクロネシア系が多く、ポリネシア系の住民もいます。 日系ミクロネシア連邦人もおり、人口の2割を占めているとも言われます。 現在の大統領であるマニー・モリは日系4世です。言語は英語が公用語であり、共通語として使われています。 日本統治時代(1914年 - 1945年)には、日本語教育が行われました。 現在では減少していますが、高齢者の中には日本語を話せる人もいます。 日本語由来の単語も多く、日本人の姓を使っている人もいます。 宗派宗教としてはキリスト教が有力で、ローマ・カトリックとプロテスタントが半分程度。 土着の精霊信仰も色濃く残っており、近年はキリスト教によって抑圧されていた儀式の復活も行われています。 漁業と農業(ココナッツやキャッサバ)が主産業で、魚介類を主に日本へ輸出し、 生活必需品を主にアメリカ合衆国から輸入していますが、貿易額は赤字を記録しています。 IMFに加盟しており、歳入の約5割がアメリカからの援助額で2003年から20年間で13億ドルを援助する予定。 漁業・農業・観光による自立経済を目指しています。 ![]() ■ヤップ州の地理 今回通過する皆既帯は、ヤップ州の離れ小島や環礁がほとんどなので、ヤップ州について記述します。 この州旗は、石貨とカヌーを表します。 ヤップ州はミクロネシア連邦に属する4州の一つで、西太平洋カロリン諸島にある島々。 石の貨幣で有名なヤップ島本島と、周辺の環礁・無人島群からなります。 州都はヤップ島のコロニア(Colonia)。人口は約1万人。 ヤップ州の時間は、日本標準時+1時間(UTC+10)です。 ![]() 紀元前3500年以上前、インドネシア、フィリピン、ニューギニア、 ソロモン諸島方面より木のカヌーで人類が航海し定住したとされています。 古代ヤップ帝国の最盛期には、人口5万人にもなったとも言われます。 州都があるコロニアではパンノキを船体にした縫合船のシングル・アウトリガーカヌーが作られ、広く用いられています。 小さいものはラグーン内での漁労用ですが、大きなものは十名近い乗員を乗せて数日間以上の外洋航海を行うことが可能な航海カヌーです。 カロリン諸島からヤップ島への貿易には、このような航海カヌーが欠かせないものでした。 またヤップ島の石貨の中でも古い時期のものは、航海カヌーによってパラオから運んで来たものと考えられています。 ![]() 11月 - 5月は北東から吹く貿易風の影響で雨が少なくなります。 6月 - 10月は風が弱まり、湿度が上昇します。 年平均気温は28℃程度、年降水量は3000mm。 住民のほとんどが農業と漁業の自給自足で、タロイモの栽培も行われています。 コプラの生産や、衣服、バスケット、絵画・彫刻などの製造などの手工業が主産業。 近年では観光産業も発展し、スキューバダイビングなどを目当てに来る外国人対象のツアーが人気。 ■ヤップ国際空港 ヤップ国際空港(Yap International Airport)とは、ミクロネシア連邦、ヤップ州ヤップ島にある国際空港。 国際定期便のほか観光飛行の小型機も発着します。 ボーイング737などの中小型ジェット機の発着に対応する1800mの滑走路と旅客ターミナルが整備されています。 グアム島とパラオからユナイテッド航空がヤップ国際空港に就航しています。 ヤップ島以外のヤップ州の島々・離島へのアクセスは、すべてヤップ島経由になります。 太平洋戦争中に日本軍や米軍が飛行場を建設したユリシー環礁、ファイス島には 9人乗りのビーチクラフト機が運航していますが便数も少なく(週2便から隔週1便)、 天候や諸条件によってすぐにフライト・キャンセルになります。 ![]() このようにヤップ州の離島を訪れるには多くの日数を要し、運行スケジュールも不確定要素が高いです。 またユリシー環礁とフララップ島以外にはホテルなどの宿泊施設がなく、全てホームステイになります。 どの島も物見遊山のツーリストを受け入れる態勢はありません。 このような事情から、いきなりヤップ州離島への渡航を計画するよりも、 先にヤップ島を訪れてヤップ島と離島の様子を把握されることをお薦めします。 離島を訪れる際、前もって入島許可証の取得が必要です。 必ず事前に現地エイジェントを通して時間の余裕を持って万全の準備をして下さい。 ■ヤップ州政府の連絡船 ![]() ![]() 参考までにネットで検索した運行日程を書くと大変長くなりますが・・・ 1日目 午後6時 ヤップ出航 2日目 午前5時 ユリシー環礁フララップ到着、環礁内の島々をまわる 3日目 干潮の時間を見計らってファイス島へ 4日目 ソロール環礁 5日目 エアウリピク環礁 6日目 ウォレアイ環礁、環礁内の島々をまわる 7日目 イファリク環礁 8日目 フチャイラップ環礁 9日目 エラート環礁~ラモトレック環礁 10日目 サタワル島、数時間で折り返し出航 11日目 ラモトレック環礁~エラート環礁 12日目 イファリク環礁 13日目 ウォレアイ環礁、環礁内の島々をまわる 14日目 エアウリピク環礁 15日目 ソロール環礁~干潮の時間を見計らってファイス島へ 16日目 ユリシー環礁着、環礁内の島々をまわり夕方、ヤップに出航 17日目 ヤップ帰着 青字で書かれた島は、2016.3.9の皆既帯が通過する島々です。 自力で観測地を巡るなら、一ヶ月以上は日本から離れなければなりません。 グアム島かヤップ島からチャーター船を借りて離島へ行った方が良いでしょう。 ヤップ州皆既帯…青線が皆既中心線で赤線が南北限界線
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■離島に行くための手続きと出入国情報![]() COTの許可を得るためには事前に申請して審査を受けることになるので、 現地の旅行手配業者を通じて手配をした方が良いでしょう。 事前に自分で手配することも可能ですが、この場合はCOTの入島許可証を受け取るため 離島に渡る前はヤップ島で数日間滞在しなければなりません。 このような離島で滞在するには、いくつか気をつける点がありますので、 経験のない普通の旅行者は、事前に現地が良く分かるヤップの旅行業者と相談し、 準備を進めてから現地に入るようにしたほうが無難でしょう。 ![]() 気候は海洋性熱帯気候で、気温は年間を通じて平均気温27度と一定しています。 ポンペイ州の年間平均降雨日は304日、平均湿度も70%と高くなっています。気候は日本の梅雨と似ています。 日本国籍の旅行者は、出国用航空券とパスポートが必要です。 パスポートの残日数は、入国日から滞在日数+3ヶ月の有効期間必要です。 ビザは、30日以内の観光訪問であれば必要ありません。航空便は日本からの直行便がありません。 ミクロネシア各州へは、コンチネンタル航空がグアムから就航しています。 ![]() 到着時にミクロネシア連邦の入局許可証(Entry Permit)を持たない人は、 入国管理局発行の出入国記録用紙に必要事項を記入し、提出しなければなりません。 この用紙は、入国地への到着前に機内で配られます。 30日以上の滞在を希望する渡航者は、入国許可証 (Entry Permit)が必要となります。 30日以下の滞在者に入国許可証は必要ありません。 旅行者は必ず、入国時にミクロネシアを出国する方法を提示しなければなりません。 帰国便のチケット、または次の目的地の入国許可証などを提示してください。 入国管理局の責任者の裁量で、チケットの代わりに滞在期間終了後に出国することを 証明できる書類を提示することも可能。 ![]() ■エアウリピク環礁の地理とDATA ![]() かつて5つの島があったものの、1970年代終わりには2つの小島が台風時の波によって流されました。 これらの小島にはココヤシが生えています。 エアウリピクの人口は2000年時点で113人。多くの島民は通常、ヤップ島本島に一時労働者として居住しています。 第一次世界大戦後には大日本帝国が南洋諸島として委任統治しました。 第二次世界大戦後、アメリカ合衆国の施政権下に入り、1947年からは太平洋諸島信託統治領の一部として管理され、 1979年からミクロネシア連邦の一部となっています。 ![]() Eauripik Atoll (エアウリピク環礁北部の小島) 6° 42´ 05.0" N △T=68.2s 143° 01´ 52.7" E Magnitude at maximum : 1.01829% Moon/Sun size ratio : 1.04454 total solar eclipse : 4m 00.4s Event Date Time (WIT) Alt Partial (C1) : 2016/03/09 10:07:15.5 +50.7° 0.00% (C2) : 2016/03/09 11:34:49.5 +70.6° 100.00% (MAX) : 2016/03/09 11:36:49.5 +71.1° 101.82% (C3) : 2016/03/09 11:38:50.0 +71.5° 100.00% (C4) : 2016/03/09 13:11:23.1 +76.2° 0.00% ![]() ウォレアイ環礁はカロリン諸島、ミクロネシア連邦のヤップ州にある22の小島の一群。 太平洋戦争中は日本軍の基地が置かれ、兵員は飢餓に苦しんだ。現在の人口は800名ほど。 右の写真は1944年のウォレアイ環礁のファラロップ島です。 日本軍の建設した滑走路はくっきり見えていますが、米軍の爆撃跡が痛々しいです。 第二次世界大戦中はメレヨン島と呼ばれて日本軍の基地となり、 1944年(昭和19年)2月に海軍第四四警備隊(宮田喜信海軍大佐) と第二百十六設営隊が上陸して滑走路を建設し、4月12日に陸軍独立混成第五〇旅団(北村勝三陸軍少将)が合流。 陸海軍合わせて6426名です。上陸直後から米軍の激しい爆撃と艦砲射撃に晒され、 折角作った飛行場も殆ど使われず食料を揚陸直後に喪失してしまい、 以後の日本軍は終戦まで極度の飢餓に苦しみました。 島全体が標高の殆どない珊瑚礁のため農耕には向かず(2m掘ると水が湧く)、 火薬を用いた漁による成果も部隊全体に行き渡る量はなかったそうです。 ラグーンから採れる小魚、ネズミ、ヤドカリ、トカゲ、ヤシガニは貴重な蛋白源でした。 潜水艦による4度の補給はあったものの、深刻な飢餓が発生し、 終戦までに全体の7割に当たる4493名の餓死病死者を出しました。自殺して戦病扱いになった兵もいます。 米軍も本島を放置して、たまにB-24リベーレーター爆撃機の爆撃があるのみで、 日本軍の高角砲は体力不足から1発を発射するのがやっとでした。 ![]() 結果的に、日本軍守備隊は飢餓により事実上全滅し、戦わずして玉砕した悲劇の島と言われています。 終戦後、草鹿任一海軍中将を団長とした第二次南方方面遺骨収集派遣団がメレヨン島を訪れました。 島民は水深8mに沈んだ二式大艇を特攻機と説明していますが、これは3月12日に水没処理された機体であり、 搭乗員は潜水艦で帰還しています。1966年(昭和41年)4月、全国メレヨン会員によって慰霊碑が建設されました。 ■ウォレアイ環礁の地理とDATA ![]() 州政府の連絡船で島々を巡るか、グアム島かヤップ島からチャーター船を借りて離島へ行った方が良いでしょう。 典型的な村社会なので、人口が多いファラロップ島の要人には最初に御挨拶をした方が良いです。 ヤップ島では前もって入島許可証の取得をしても村の住民や要人には挨拶を欠かせません。 旅の目的も最初からお話しした方が良いです。 一旦村人に受け入れてもらえたら、素晴らしい環礁の島々で連絡船が来るまで過ごせるかも知れません。 もちろん売店などは無いので、事前に物資と水や食料が必要です。 蚊の心配があるので、蚊取り線香と出来れば蚊帳があった方が安心です。 水着とビーチサンダルもお忘れなく。島で出たゴミも持ち帰りましょう。 撮影などで電源を使う場合は、ヤップ島のホテルで充電を済ませた方が良いでしょう。 無人島へ行く感覚で準備を進めると良いと思います。 Woleai Atoll (ウォレアイ環礁ファラロップ島南部) 7° 21´ 51.0" N △T=68.2s 143° 54´ 37.2" E Magnitude at maximum : 1.012112% Moon/Sun size ratio : 1.04465 total solar eclipse : 4m 05.4s Event Date Time (WIT) Alt Partial (C1) : 2016/03/09 10:09:58.5 +52.0° 0.00% (C2) : 2016/03/09 11:38:04.8 +71.6° 100.00% (MAX) : 2016/03/09 11:40:07.3 +72.0° 101.21% (C3) : 2016/03/09 11:42:10.2 +72.4° 100.00% (C4) : 2016/03/09 13:14:36.9 +74.6° 0.00% ■ウォレアイ環礁の暮らし 島民は基本的にふんどし姿で、女性は腰に花柄の布を巻いているだけ。 男性はカヌーを使ってラグーンの沖で漁業を行っています。 ヤシの葉が織られたわらぶき屋根の家は、かなり伝統的。男女が住む家は、それぞれ別々になります。 島内の学校で女子がバスケット作りや織り物を学び、男子は伝統文化やカヌー作りをします。 ![]() 島にはキリスト教会がありますが、椅子はなく地べたに座ります。 イースターのお祭りでは、土曜日に飼っている豚を2頭ほど食肉にします。 タロイモ、パンノキ、ココナッツ、パパイヤ、バナナ、ドーナツとパンは、島の女性が準備していました。 お祭りでは、水中でのリレーレースもあります。 西洋のポップ音楽とハワイアンミュージックに、伝統的な歌と踊りがありました。 旧日本軍がこの地を占領していた経緯から、島のお年寄りや長老に日本語の話せる方がいます。 集落の外れに行くと、日本軍が残した戦車や砲台など戦争の残骸が放置されたまま残っています。 Cruising with Soggy Paws より一部抜粋して翻訳しました。 |