津軽は演歌によく歌われている。厳しい自然と初対面の人に対しては、遠慮して押し黙ってしまう人の気質がそうさせるのだ。本州の北のはずれと言うのも旅情をそそると言うワケで津軽を比喩してみました。ところで、ねぷたの由来ですが 田村麿説 平安初期の武将、坂上田村麿が征夷大将軍として東北に遠征。 敵をおびき寄せるため大灯籠と笛、太鼓で仕掛けたのがきっかけ…しかし、この田村麿は青森に来ていないらしい津軽為信説 津軽藩 初代藩祖・津軽為信が上洛中の文禄2年(1593年)、諸大名から田舎者扱いされた鬱憤を晴らそうとお盆の供養に大型灯籠を作って京の市中を練り歩いたのがきっかけ…しかし、当時の記録から“ねぷた”らしき文字が見当たらない。眠り流し説(最有力) 青森県内でも立秋(8月8日〜9日頃)までは、暑さが続き、寝不足になりがち。そこで竿の先に灯籠を下げ、「ねんぷたっコ流れろ〜」と唱えながら、邪悪を流し豊作を願って歩いた昔の風習が発展した…と言われています。 「眠い」を津軽弁で表現すると、弘前では「ねんぷて」といい、青森では「ねぶて」といいます。弘前に住んでいる私も眠い時は「ねぷてぇ」と言っています。 日本の祭りのほとんどは、五穀豊穣を祈願し神を祭るところから由来しています。虫送りや七夕祭など…「ねぶた」も、元はと言えば、こうした季節行事の一つで、大衆の心から生まれたものでしょう。正徳3年(1713年)に弘前で「ねふた(nehuta)」を出した…と言う記録が残っています。その頃は普通の灯籠のようなものが、扇形になり「ねぷた」と呼ばれるようになりました。更に県内各地に広まって呼び方にも変化がついたといわれます。弘前では戦前まで“けんかねぷた”と言うものがありました。ねぷたの運行が終わったらねぷた同士を突き合わせます。けんかが終われば壊れたねぷたを岩木川に流していました。現在はそのような風習も無くなり、ねぷた絵はねぷたの骨組みから丁寧に剥がして保存します。 この骨組みも来年また使えるように鉄やアルミで出来ています。 現在ねぷた(neputa)と表記されて運行される自治体は弘前市、五所川原市(立ちねぷた)、黒石市、平賀町、藤崎町の五市町です(他の市町は未確認)ねぶた(nebuta)と表記されるのは青森市とむつ市です。いずれもねふた(nehuta)から 変化したものだと言われています。それはねぷたを引っ張る時の掛け声の違いで分かります。 弘前の場合
ねぷたが指定のルートから運行を外れると、『ねぷたのもんどりっこ』と言いながら地元の町まで帰ります。いわゆるねぷたの戻りです。これはお囃子も音の始まりがガラッと変わるので面白いです^^
また運行中に前のねぷたとの兼ね合いで、ねぷた同士の間隔が詰まることがあります。この時はただ停まっているのではなく、別の音でお囃子が続きます。 ねぷた祭りの掛け声 弘前は早くやれ…と言う津軽弁がヤァヤァドやれ…となります。早くやってしまえと言うことです。 黒石のヤレヤレ…も似たような意味です。やれやれ(>_<)…ではありません。 青森のラッセーラーは、ねぶたに使うローソクを「出せ出せ」と言っていたのが「ラッセーラーラッセーラー」になったのではないか?という説です。 ねぷたの撮影方法… 私はISO400(AGFA)でフラッシュ無し、ねぷた絵の暗いところにスポット測光でシャッタースピードを割り出し、手持ちで撮影しています。明るくないとブレますので、レンズは開放で撮っています。機種はMINOLTAα-707si レンズは24o-85oF3.5(開放)ねぷたは徐々に移動するので、ズームレンズは欠かせません。ねぷたがうまく止まった所でシャッターを切ります。 ねぷたまつりは観客が毎年多く、非常に込むので午後から場所取りをしています。電柱の前だと観客の邪魔にならないので、立って撮影します。それと、ネオンやライトを避けて写すとねぷた絵の明かりが浮き上がるように撮れます。 最近は八戸市まで東北新幹線が延びたので、その影響でいつもの年より20%増で観光客が来弘されました。遠いところからいらした皆様に感謝致しますm__m 御感想は津軽ごだく帳までお願い致します 記事や写真とBGMの無断転載禁止
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