2015年 青森ねぶたまつり
2015年8月5日に運行されたねぶたを運行順に紹介します。青森市の青森県庁向かいで撮影しました。
当日は21台が運行されましたが、私が気に入っているねぶた師と受賞したねぶただけを掲載します。
JRねぶた
日本通運㈱
青森県庁
NTTねぷた
に組・東芝
青森菱友会
私たちねぶた
ミスねぶた
青年会議所
マルハニチロ
日立連合
市民ねぶた
青森山田学園
板金工業組合
ヤマト運輸
サンロード青森
アサヒビール
JRねぶた実行プロジェクト・ねぶた師 竹浪 比呂夫
市長賞【総合3位】
悲劇の英雄、源九郎判官義経。実の兄である源頼朝から追われ、北へと落ち延びるも奥州平泉の地(岩手県平泉町)にて襲撃を受け自ら命を落とした。しかしそれより後、人々の間では「義経は生き延びてさらに北を目指した」と、まことしやかに伝えられてきた。
蝦夷地(北海道)へ渡ろうと、津軽半島の北の果て、三厩(青森県外ヶ浜町)へ辿り着いた義経だったが、津軽海峡は暴風が吹き荒れ、波高く、飲み込まれそうなほどおそろしい勢いで潮が流れている。とても船を出すことかなわず、進路を絶たれてしまった。
そこで義経、肌身離さず持っていた観音像を波打ち際の岩上に置き、風波が治まるよう、三日三晩、一心不乱に経文を唱え続けた。そして満願を迎えた夜明 け。義経の前に白髪の老人が現れ、三頭の神通力を持った竜馬を与えると告げると、たちまち霞のごとくその姿は消えてしまった。岩の上から下りてみると、岩穴に三頭の駿馬が繋がれていた。授かりし竜馬に跨り、いざ蝦夷地へ向け荒れ狂う津軽海峡を翔け渡らんとする義経とその郎党 武蔵坊弁慶の姿である。
来年に控えた北海道新幹線 新青森~新函館北斗間の開通による青函圏の緊密な交流と更なる繁栄を願い奉るものである。
JRねぶた実行プロジェクト(町印)
JRねぶた実行プロジェクト(跳人)
津軽海峡 義経飛龍
津軽海峡 義経飛龍・送り絵
囃し方・太鼓…左から4番目の囃し方がこちらを向いて変顔をしています(>_<)
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日本通運㈱ねぶた実行委員会・ねぶた師 柳谷 優浩
大同二年(八〇六年)十月 弘法大師空海が、唐より密教を日本へ持ち帰る際、玄界灘の荒れ狂う風と波に船はたびたび沈没の危機にさらされた。この時船中にて、師の恵果和尚から授かった霊木に大師自ら一刀三礼されて刻まれた不動明王に繰り返し祈念申し上げた。大嵐が最高潮に達しようとしたその時、不動明王が海上に降臨出現されたのである。
その不動明王は大火炎を発し、右手にもつ利剣を振って魔風を鎮め、荒波を切り刻み続けた。大嵐は、やがて静寂の大海原となり遣唐使船は無事に大宰府へ寄港することができ、持ち帰った密教を日本に布教させることが出来たのである。
このことからこの霊尊を波切不動明王と呼ぶようになり、その後日本全国で海難除け、航海安全の神様として多くのところで祀られることになった。 不動明王は、大日如来の使者とされ、すべての障害を打ち砕き、仏道に従わないものを力ずくにでも導き救済するという役目を持っている。
日本通運㈱ねぶた実行委員会 運行前の三本締め
日本通運㈱ねぶた実行委員会(町印)
波切不動
波切不動・送り絵
囃し方・太鼓
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県庁ねぶた実行委員会・ねぶた師 大白 我鴻
紀元前十一世紀、人界では殷王朝の最後の王となる紂王が即位した。紂王は名君とされていたが、その優れた資質ゆえの慢心から、神である女媧の祭儀において「女媧は人間界のどの人間より美しい」と人間と混同した不敬な詩を読んだことから女媧の怒りをかった。
女媧は千年狐狸精に紂王を陥れるように命じ、千年狐狸精は紂王の寵妃である妲己の魂魄を滅ぼし身体を奪いとり、妲己になりすまして紂王を堕落させ暴虐な政治を行わせた。
一方仙界では、新たに神界を創設する計画が進められていた。その執行者として選ばれた姜子牙は、神界を創設するために周を助けて殷を滅ぼし、その戦いの戦死者を神に封ずる封神の儀式の司祭を務めるよう命じられる。姜子牙が巻き起こす殷周両軍の戦いは、仙界の仙人や道士の加勢を受け、壮絶な戦乱へと突き進む。
ねぶたは、四不相に乗る姜子牙に対し、敵対する弟弟子の申公豹が白額虎に乗り稲妻を随意に走らせることのできる「雷公鞭」を駆使する場面である。
封神演義
封神演義・送り絵
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NTTグループねぶた・ねぶた師 北村 春一
「水滸伝」に登場する好漢のひとり、張順。潜水泳法の天才で、渾名は波の上を駆ける白い魚を意味する「浪裏白跳」と言われ、梁山泊では水軍頭領のひとりとして活躍した。
敵軍が杭州城に篭城した際、城に面した湖から水門を通って城内へ忍び込むことを進言。豪傑百八人の思いを背負い、たったひとり泳いで向かう。鉄格子の水門を破り城門前まで忍び寄るが、敵の罠により一斉に攻撃を受け壮絶な最期を遂げる。
梁山泊軍を勝利へ導くことになった杭州湧金門での張順の勇姿を、たとえ険しい道であろうと前へ進む挑戦者の姿と重ね、未来への希望と思いを込めてねぶたの場面とする。
NTTグループねぶた(町印)
張順、湧金門の勇姿・鏡絵
張順、湧金門の勇姿・送り絵
囃し方・太鼓
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に組 東芝・ねぶた師 北村 隆
巴提便(はすび)は545年欽明天皇につかわされて、妻子とともに百済へ向かった。百済の浜で日が暮れたのでそこに泊まった時のこと。子供が急にいなくなり、行き先がわからなくなった。その夜は大雪で夜が明けてから探し始めると、虎の足跡が続いていた。
巴提便は刀を帯び鎧を着て岩穴を捜し歩くと、目の前に大虎が現れた。刀を抜いて「自分は勅を受けて山野に奔走し、風雨にさらされ、草を枕に茨を床にして苦労するのは、子を愛し親の業を継がせようと思うため。
神は私に子を一人与えたが、今夜その子がいなくなった。跡を追って探しに来た。命を落とすことも恐れず、虎に報いるために」その虎は前進し、口をあけて呑もうとした。巴提便はさっと左手を差し出し、その虎の舌をつかみ、右手で刀を突き刺した。
東芝・提灯
東芝・提灯
巴提便、大虎を退治す
巴提便、大虎を退治す・拡大
巴提便、大虎を退治す・送り絵
囃し方・太鼓
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青森菱友会・ねぶた師 竹浪 比呂夫
知事賞・最優秀製作者賞【総合2位】
水虎様というのは神様になった河童のことである。
その昔、青森県の西に広がる津軽平野は沼地が多く、子どもたちの水難事故が相次いで起こっていた。人々は河童が子どもたちを水に引きずり込んでいると信じていた。
江戸時代になり、弘前藩四代藩主、信政公の世。信政公は豊かな国作りをすべく、津軽平野を次々と新田開発をしていき、いまの五所川原市からつがる市木造のあたりが新田となった。この業績から、信政公は元禄年間(1688-1704)に大名七傑のひとりに数えられ、弘前藩の中興の英主とされる。
田んぼとともにそこに住む人々も増え、津軽平野の新田地帯には百三十以上の新しい村が出来た。人口が多くなり、残された沼地や用水堰、小川の多いところでは、水難事故も増加の一途をたどった。これを河童の仕業として恐れた人々は、河童を鎮めるために神格を与え、「水虎様」という水難除けの神様として祀ることにした。水虎様信仰はつがる市木造の実相寺から始まったとされるが、津軽平野の水辺や道端、あちらこちらに水虎様はいまも祀られている。
河童といえば相撲好きな妖怪として知られるが、信政公も大の相撲好きで観戦のため城の敷地内に相撲場を造ってしまうほどであった。そして相撲は日本のずっと昔から、神様に感謝を捧げる神事である。軍配を握る行司は信政公。邪気を払う四股を踏み、はっけよいと相撲を取るのは水虎様。津軽平野の五穀豊穣そして水難防止を祈願する大一番である。つがる市合併十周年を寿ぎ祝いの出陣である。
青森菱友会(町印)
つがる新田 信政公と水虎様
つがる新田 信政公と水虎様・送り絵
囃し方・太鼓
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私たちのねぶた自主製作実行委員会・ねぶた師 相馬寿朗
鎌倉時代中期、当時、大陸を支配していたモンゴル帝国(蒙古)が2度にわたり日本を侵略しようと攻めに来た。1274年文永の役・1281年の弘安の役のことです。
蒙古軍は九州の対馬や博多に上陸し、日本の武将、竹崎季長や九州の豪族たちと激しい戦となった。文永の役では蒙古軍3万余、弘安の役では総勢14万余の大船団で押し寄せたが、激しい戦の後、暴風に会い一晩で姿を消したと言われています。後に日本では、日本軍が劣勢の中、神風が吹き蒙古軍を二度にわたり全滅させたとして言い伝えられています。
私たちのねぶた自主製作実行委員会(町印)
蒙古襲来・風神、神風を起す
送り絵
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ミス青森ねぶた
ミスねぶた市川知実さん(左・25) ミスねぶたグランプリ楠美茉里奈さん(中・20) ミスねぶた李沢千里さん(右・23)
車上で手を振る姿を近くで撮ろうとしたら席に着いてからお撮り下さいとの規制があり、遠すぎて結局撮れなかった悔し思いがあります。
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公益社団法人青森青年会議所・ねぶた師 立田 龍宝
悪七兵衛景清(景清)は平家の侍であり、反逆の英雄として様々な伝説を残している。その伝説の一つとして平家滅亡後に平家が遺したとされる宝の在り処を 聞き出すために、景清は源氏方に捕らえられ牢に入れられることとなる。
しかし景清はどのような仕打ちにも耐え忍び、源氏方より与えられた水すらも飲まずに、一切口を割ることはなかった。業を煮やした源氏方は、景清の妻、阿古屋と娘の人丸を景清の牢の前に連れて行き責めたてた。ここまで様々な行為に耐え忍 んできた景清だが、この卑劣な行為に怒り狂って剛勇を振るい堅牢な牢を打ち破り、源氏方に対して荒々しく大立ち廻りをして一網打尽にした。
これは分身不動 を守護神に持つ成田屋が、歌舞伎十八番之内で演じる荒事芸の一場面である。景清が戦に敗れ世間では悪としてみられても、己の正義を貫き大切なもの(誇り) を守りながら更なる発展を目指し、新たなる時代へと突き進もうとする場面としても有名である。
燕青 瓦投げつける
三升景清 分身不動
三升景清 分身不動・送り絵
囃し方・太鼓
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マルハニチロ侫武多会・ねぶた師 手塚 茂樹
桃園の誓いで劉備・関羽と義兄弟の契りを結んだ、中国 三国時代の豪傑 張飛翼徳は、一人で一万の兵に匹敵するといわれる程の勇猛さで、多くの武将から恐れられていた。
後漢末期、劉備軍は敵対する騎兵五千の曹操軍から追撃され、とうとう当陽県の長坂で追いつかれてしまう。曹操軍を阻止する為、張飛はわずか二十騎を率いて長坂橋へ向かった。この橋を越えなければ劉備軍の所へ攻め入れないのである。張飛は一人その橋上へ立ち塞がった。
そして、眼前に迫った曹操方の大軍に対し「我こそは張飛なり!勝負したい者は前へ出ろ!」と目をいからせ蛇矛を振り上げ、地鳴のような声で大喝した。さすがの曹操軍も、この鬼のような迫力には怖れをなし、すごすごと退却するしかなかった。
すぐさま張飛は部下に橋を破壊させ、見事に自軍を危機から救ったのであった。外敵から国を守るため、一人強大な勢力に立ち向かった張飛の勇姿に、困難が絶えない世の災いを払い、平和が続く事を祈り願うものである。
マルハニチロ侫武多会(町印)
三国志より 張飛 長坂橋に吼える
三国志より 張飛 長坂橋に吼える・送り絵
囃し方・太鼓
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日立連合ねぶた委員会・ねぶた師 北村 蓮明
ねぶた大賞・囃子賞・優秀制作者賞【総合1位】
鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇は天皇中心の公家を重視した新しい政治を始めた。足利尊氏は武家政治の再興を目指して、後醍醐天皇に反旗を翻し京都を奪回。建武の新政はわずか三年足らずで崩壊した。
天皇方は比叡山を拠点として、京都奪還を目指す。天皇方の新田軍は、琵琶湖畔の三井寺に立てこもる足利軍に攻め入ろうとするが、堀にかけてあった橋をはずされており、攻めあぐねていた。
そこで新田義貞の部下の篠塚、亘理、畑、栗生の四人が大暴れ。大卒塔婆を引き抜き橋をかける者。門柱を倒す者。仁王像を投げ飛ばす者。ねぶたは周りをなぎ倒しながら三井寺へ攻め入る新田四天王の大活躍の場面である。
日立連合ねぶた委員会(町印)
三井寺合戦 新田四天王大暴れ・鏡絵
三井寺合戦 新田四天王大暴れ・送り絵
囃し方・太鼓
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青森市民ねぶた実行委員会・ねぶた師 北村 麻子
観光コンベンション協会会長賞・優秀制作者賞【総合5位】
平将門の乱での出来事である。平将門の乱とは、本来はあくまで一族の「私闘」であったが将門軍が国府とその周辺で略奪と乱暴の限りを尽くし朝廷に反旗を翻し関東一円を手中に収め、さらに自らを「新皇」と名乗ったと言う出来事である。
東大寺三月堂の北側、厨子の中に祀っている執金剛神の前で朝敵降伏の法を行っていたところ、像の右錺が大蜂となりまた像からたくさんの蜂がでて東の戦場 へ向かって飛んでいった。戦場では大蜂が平将門を刺し、この乱を平定したという。朝敵降伏の法が行なわれている時、この像が姿を消し二十日あまりして、ま た元のところへ帰ってきたとも言われている。
青森市民ねぶた実行委員会(町印)
平将門と執金剛神
平将門と執金剛神・送り絵
囃子方・太鼓
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青森山田学園・ねぶた師 北村 隆
阿修羅は「太陽の神」「火の神」といわれ正義を司る神、三面六臂(三つの顔に六本の腕)の姿である。須弥山の北に住み、力を司る神の帝釈天と戦い続ける阿修羅は、のちに釈迦の教えによって仏教の守護神となり「天龍八部衆」(仏教を守護する八つの神)の一尊に加わるのである。
争いは勝っても負けても傷つきます。
争いを好んだ阿修羅も仏教界にはいり、合掌する姿は争いを捨てた姿です。
争いのない平和な世界を願う。
阿修羅と帝釈天
阿修羅と帝釈天・送り絵
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青森県板金工業組合・ねぶた師 北村 蓮明
商工会議所会頭賞【総合4位】
すべてを焼き尽くす炎の覇者不動明王は、怒りをもって強引にでも衆生を導く尊い仏である。燃え上がる火炎は煩悩を焼き尽くし、右手に持つ剣は煩悩を叩き斬る。左手に持つ羂索は衆生をからめ取って仏法世界へ救い上げるのである。
一方、竜王は川、淵、池、沼、湖などに棲んでおり、水神として崇められている。雲を起こして雨を呼び、雷電をも司り、怒りにふれると大嵐になるが、農耕には欠かせない大切な神として、古くから信仰されている。天の恵みに感謝し、お互いを思いやる心を持つことで、不動と竜王に守護されるのである。
不動と竜王 鏡絵
不動と竜王 送り絵
囃し方・太鼓
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ヤマト運輸ねぶた実行委員会・ねぶた師 北村 隆
羅漢とは「阿羅漢」の略で、煩悩を克服し真の悟りを得て供養尊敬を受けるに値する境地に達した人という意味であり入滅したお釈迦様に代わり、自らは現世に留まって仏教を守る者をいう。
迦楼羅とは仏教に帰依する際に雨風を起こし人々を苦しめる悪龍や毒蛇を喰らうことをブッダから許される仏法守護の神となった。
口から金の火を吹き、赤い翼を広げると336万里にも達するといわれる炎のように赤い霊鳥である。羅漢は迦楼羅を乗りこなし、手にした香炉の煙で秘術を使いさまざまな悪を食いつくし、天変地異から人々を守る。
ヤマト運輸ねぶた実行委員会(町印)
羅漢
羅漢・送り絵
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サンロード青森・ねぶた師 千葉 作龍
運行・跳人賞
平安時代中期、天慶二年(九三八年)。第五十代・桓武天皇より六代の子孫、相馬小次郎・平将門は一族の所領争いに端を発し、武蔵権守・興世王らと共に時の権力、朝廷に反旗を翻し坂東八洲を征服・統治するに至った。将門は、本拠地である坂東下総・岩井の地(茨城南西部)を都と定め、自ら「新皇」と名乗った。世に言う「天慶の大乱」である。しかし、従兄の平貞盛と藤原秀郷の連合軍に敗れ、将門の野望は儚く散ったのであった。
坂東の民に広く親しまれた将門は、今なお坂東武者の英雄として東京「神田明神」として奉られている。ねぶたの場面は、守護神の北斗七星の化身である「妙見尊星王」を仰ぎ、理想の独立国家を見据える「平新皇将門」の勇姿である。
サンロード青森・提灯
天慶の新皇「平 将門」
天慶の新皇「平 将門」・送り絵
囃子方・太鼓
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消防第二分団 アサヒビール・ねぶた師 千葉 作龍
正保四年(1647)江戸津軽藩上屋敷。津軽三代藩主「信義」は知人の大名たちを招き酒宴を催していたが生来の酒乱の悪癖のために客の大名たちは次々と席を立ってしまった。これに腹を立てた信義は刀を抜き追いかける。しかし門外での忍傷ざたはお家取り潰しにもなりかねない。
その時家臣の「進藤庄兵衛」は命懸けで信義を引き止める。その時信義の振り降した刀が庄兵衛の懐中の「千手観音」に当たり難を逃れたのであった。(ねぶたの場面)
庄兵衛は信義亡き後も名君と誉高い四代「信政」にも仕え「国にも替わる忠臣なり」と言わしめたという。庄兵衛はその後、信政に青森城代家老として重用され、御仮家(出城)を建て盲目の弱者を起用し堀を作り又、新町に市を開くなど青森の発展に尽力した。そのジョッパリ精神は「鬼の庄兵衛」と称され現在も広田神社に奉られている青森中興の祖である。
進藤庄兵衛・津軽信義を諌める
進藤庄兵衛・津軽信義を諌める・送り絵
囃し方・太鼓
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