2014年 青森ねぶたまつり

2014年8月3日に運行されたねぶたを運行順に紹介します。青森市の青森県庁前で撮影しました。
当日は16台が運行されましたが、私が気に入っているねぶた師と受賞したねぶただけを掲載します。

  • 青森菱友会
  • 篠田町会
  • 油川幼稚園
  • 古川ねぶた
  • ミスねぶた
  • 青森市PTA
  • 私たちねぶた
  • 県庁ねぶた
  • マルハニチロ
  • パナソニック
  • アサヒビール
  • に組・東芝
  • 日本通運㈱
  • 市民ねぶた
  • ヤマト運輸
  • 青森山田学園
  • サンロード青森
  • ねぶた愛好会
  • JRねぶた
  • 酸ヶ湯温泉
  • 青森菱友会・ねぶた師 竹浪 比呂夫


    知事賞・最優秀製作者賞【総合2位】


    青森県大間町。『本州最北端の地』に似合わぬ南国の色彩溢れる祭りが年に一度行われる。その名も『天妃様行列』女神に乗った輿、目に鮮やかな異国の香りのする衣装を身に纏った神々に竜踊り、そして打ち鳴らされる銅鑼の音や爆竹。土地に福をもたらす神の巡行だ。天妃様とは中国の東南沿岸部や台湾で篤く信仰されている道教の神『媽祖』の別名であり、航海の安全や漁業を司る海の民を守る美しい女神である。

    大間町に天妃様が祀られるようになったのは、江戸時代、元禄九年(1696)まで遡る。九州で祀られていたものが勧請されたとも、徳川光圀公が海の民の励みとなるよう勧請したとも言われる。日本古来の船玉信仰や弟橘比売命伝説と結びつき、交易と共に海を巡り巡って大間まで伝えられた。

    行列には、天妃に調伏改心された悪鬼、千里眼と順風耳が随神として共に祀られる少年神 哪吒太子と随行する。
    世界を繋ぐ海の守り神たる天妃神とそれを守護する千里眼と哪吒。海に四方を囲まれたこの国の安寧と人々の幸福を切に願う。

    青森菱友会
    青森菱友会(町印)

    大間の天妃神 千里眼と哪
    大間の天妃神 千里眼と哪吒

    大間の天妃神 千里眼と哪
    大間の天妃神 千里眼と哪吒・拡大

    大間の天妃神 千里眼と哪
    大間の天妃神 千里眼と哪吒・送り絵

    囃し方・笛
    囃し方・笛

    囃し方・太鼓
    囃し方・太鼓

    囃し方・太鼓
    囃し方・太鼓

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  • 篠田町会ねぶた実行委員会・ねぶた師 不明


    桶狭間の戦いで今川義元に奇跡的な勝利を遂げた信長は、新進気鋭の戦国大名として周囲も驚く急成長を遂げ、舅・斉藤道三の敵討ちとして美濃を征服した後に「天下布武」の印を掲げ、「美しき流れを絶やさず新しき国を作るため」、キリスト教や木下藤吉郎(後の羽柴秀吉)のような”新参者”を取り立てる一方、足利将軍家を排斥し、比叡山を初めとする神社仏閣を弾圧、朝廷や公家を無視し、家族や古くから仕えてきた家臣すら切り捨てる。

    自ら定めた50年の人生が迫るにつれ、天下を統一して世界にも乗り出し「新しき国を作る」目標に燃えた信長は、「自らは神である」という”ふり”すら行うが、その傲慢な振る舞いは次第に心服していた家臣達に不審を抱かせ、思いもかけない終焉を遂げることになったのだった。

    織田信長 天下布武
    織田信長 天下布武

    送り絵
    送り絵

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  • 油川幼稚園ねぶた愛好会・ねぶた師 不明


    ある時、唐の6代皇帝玄宗がマラリアにかかり床に伏せた。玄宗は高熱のなかで夢を見る。宮廷内で小鬼が悪戯をするが、どこからともなく大鬼が現れ小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間(618年-626年)に官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた。

    夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった。 この伝説はやがて一般に広まり、17世紀の明代末期から清代初期になると端午の節句に厄除けとして鍾馗図を家々に飾る風習が生まれた。 鍾馗の図は必ず長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな眼で何かを睨みつけている姿である。

    鐘馗
    鐘馗

    虎
    虎・送り絵

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  • 古川地域ねぶた祭り実行委員会・ねぶた師 健太


    『象引』とは、 歌舞伎十八番のひとつ。叛臣蘇我入鹿が連れてきた象を、藤原鎌足の家来山上源内左衛門が入鹿と引きあうという粗筋。蘇我入鹿と山上源内左衛門の設定が、大臣大伴褐麿と箕田源二猛になる場合がある。

    象はほんらい日本にはいない動物であるが、古くは普賢菩薩の乗り物とされ、また応永の頃から生きている象が来日するようになり、物珍しさにしばしば評判となった。江戸時代には浄瑠璃や歌舞伎の舞台でも象について何度か取り上げられているが、それに「物を引き合う」という歌舞伎の荒事芸を取り入れたものである。

    象引
    象引

    門
    門・送り絵

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  • ミス青森ねぶた


    ミス青森ねぶた
    ミスねぶた金谷理緒さん(左・25) ミスねぶたグランプリ里村美穂さん(中・21) ミスねぶた高杉夏実さん(右・21)
    車上で手を振る姿を近くで撮ろうとしたら席に着いてからお撮り下さいとの規制があり、遠すぎて結局撮れなかった悔し思いがあります。

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  • 青森市PTA連合会・ねぶた師 柳谷 優碩


    鬼童丸(きどうまる)は、一説に大江山の酒呑童子の子と言われ、比叡山の稚児であったと伝えられる。

    ある時、鬼童丸は山中の洞窟で怪盗・袴垂保輔(はかまだれやすすけ)に出会った。そこで二人はお互いの身に付けた技を競い合った。  保輔が妖術で山を炎で包み込めば、鬼童丸は大水を流し込み、怪鳥に乗って応戦。次に、大蛇に変じ鬼童丸に襲いかかる保輔。それに対し頭髪も背中の炎も逆巻かせ火炎不動の様に憤怒の形相で妖術の印を結ぶ鬼童丸。まさに奇々怪々な死闘が次々に繰り広げられた。ここで技を磨いた鬼童丸は、やがて天狗堂の術を取得。父の仇である源頼光を討つため、市原野に向かったという。

    鬼童丸と袴垂保輔
    鬼童丸と袴垂保輔・表

    鬼童丸と袴垂保輔
    鬼童丸と袴垂保輔・裏

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  • 私たちのねぶた自主製作実行委員会・ねぶた師 相馬寿朗


    中国・唐の時代の皇帝・玄宗が熱病に侵され床に伏せていた所、夢に小鬼が現れ悪戯をしてまわるが、大鬼が現れて小鬼を退治してしまう。玄宗が正体を尋ねると「自分は鍾馗。官吏になるために科挙(試験)を受けたが落第した為それを恥じて自ら命を絶ったが高祖皇帝が手厚く葬ってくれたので、その恩に報いる為にやってきた。」と告げた。

    夢から覚めた玄宗は病が治っていることに気付き、絵師を呼び鍾馗の姿を絵に書かせた。そして玄宗は鍾馗を神として祀る事にした。以来中国では学業成就・疫病除けの神として信仰される様になった。

    日本では江戸時代から端午の節句に子供を病魔から守り、頭が良くなりますようにとの願いを込め、鍾馗を五月人形や幟にして鯉のぼりと一緒に飾り子供の成長を願うものとなった。鯉のぼりは天の神から見て「我が家に男子が誕生したので守って下さい」という目印として、五色の吹流しは古代中国の陰陽五行説からの魔除けとして飾る風習が出来たのである。

    このねぶたは、幟に描かれた鍾馗が抜け出し、鯉のぼりに隠れる小鬼を退治する場面を表現しているものであり、未来を担う子供達の健やかな成長を願うものである。

    私たちのねぶた自主製作実行委員会
    私たちのねぶた自主製作実行委員会(町印)

    「鍾馗」端午の節句の鬼退治
    「鍾馗」端午の節句の鬼退治

    送り絵
    送り絵

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  • 県庁ねぶた実行委員会・ねぶた師 大白 我鴻


    袴垂は、盗みのとがで捕らえられ、獄につながれていたところを、大赦にあって出獄したが、関山で死人のふりをして横たわり、通りがかった武士を刺し殺し、衣服や武器をうばうなどした平安時代の大盗賊である。また比叡山の稚児であった鬼童丸も、悪行にて比叡山を追われ、山中の洞穴に住み、盗賊となった。

    場面は、袴垂が呪文を唱え大蛇を繰り出すと、鬼童丸はカラス天狗を操り応戦する妖術合戦である。

    袴垂保輔と鬼童丸
    袴垂保輔と鬼童丸 妖術合戦

    袴垂保輔と鬼童丸
    袴垂保輔と鬼童丸 妖術合戦・送り絵

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  • マルハニチロ侫武多会・ねぶた師 手塚 茂樹


    太古より、自然は人々に豊かな恵みと潤いをもたらして来た。その一方で、容赦なく天災を引き起こす、怖れの対象でもあった。
    それ故、自然には多くの神々が存在すると考えられ、雷に宿る雷神は、五穀豊穣の神として崇め祀られて来た。

    雷鳴轟き稲妻が閃光を放てば稲穂が実るとされ、落雷はオオカミに似た雷獣という妖怪が、天空からものすごい速さで落ちて起こるという。ねぶたは、雷獣を従え三つ巴の炎の太鼓を打ち鳴らす雷神の姿である。

    マルハニチロ侫武多会
    マルハニチロ侫武多会(町印)

    雷神
    雷神

    雷神
    雷神・送り絵

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  • 青森パナソニックねぶた会・ねぶた師 北村 蓮明


    観光コンベンション協会会長賞【総合5位】


    源範頼の軍は一の谷の東、生田の森から攻め入った。梶原景時は五百余騎、城の木戸の中へ討ち入ってさっと引いて出るが、共に討ち入った息子の景季の姿が見えない。子供を討たれてはと再び城中に取って返し、景季を捜して駆け巡ると、景季は馬を射られ、歩立になり、兜も打ち落されて、敵五人を相手に奮戦していた。景季の背の矢を入れる箙には盛りの紅梅が一枝挿されていた。景時は馬を飛んで下り、父子して戦い無事に引き揚げた。  景季は平家の公家たちに、「風流を解する強者」として知られるようになった。

    ねぶたは梅の大木の下で梶原父子が平家を相手に奮戦している場面。

    青森パナソニックねぶた会
    青森パナソニックねぶた会(町印)

    箙の梅、景季奮戦
    箙の梅、景季奮戦

    箙の梅、景季奮戦
    箙の梅、景季奮戦・送り絵

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  • 消防第二分団 アサヒビール・ねぶた師 千葉 作龍


    平安の世、朝廷守護の北面の武士「遠藤武者盛遠」は美しい人妻「袈沙御前」に思いを寄せ、夫渡辺渡を亡き者にしようと企てるが袈沙は夫の身代わりとなって盛遠の刃に掛かってしまった。盛遠は平清盛ら北面の武士に追われ袈沙の生首を抱え都を逃がれる。やがて南紀「那智の滝」に辿り着くが己の所業を恥じ滝に打たれて懺悔するが命を落としてしまった。

    その時不動明王が現われ盛遠を救う。盛遠はその後出家し名を「文覚」と改め、平治の乱で平清盛に敗れ伊豆に流されていた源頼朝に平氏打倒を促したという。

    那智の滝「文覚と不動明王」
    那智の滝「文覚と不動明王」

    那智の滝「文覚と不動明王」
    那智の滝「文覚と不動明王」・拡大

    那智の滝「文覚と不動明王」
    那智の滝「文覚と不動明王」・送り絵

    囃し方・太鼓
    囃し方・太鼓

    囃し方・太鼓
    囃し方・太鼓

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  • に組 東芝・ねぶた師 北村 隆


    武内宿禰は古事記、日本書紀に登場する人物である。
    大和朝廷初期の景行、成務、仲哀、応神、仁徳の五朝に仕え295歳で没したともいわれる。仲哀天皇亡き後、神の託宣を受け神功皇后に従い、神功皇后と生まれたばかりのホムタケワの命(応神天皇)を守っていた。

    海中に住む安曇磯良から龍宮よりもたらされたという「干珠」「満珠」を授かり潮を自在に操り、神功皇后の勝利に貢献したという。

    東芝・提灯
    東芝・提灯

    武内宿禰 宝珠を得る
    武内宿禰 宝珠を得る

    武内宿禰 宝珠を得る
    武内宿禰 宝珠を得る・送り絵

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  • 日本通運㈱ねぶた実行委員会・ねぶた師 柳谷 優浩


    後醍醐天皇の命により、幕府追討のため義貞は二万の軍勢を引き連れ鎌倉目指して関東平野を南下していた。時は1333年5月21日夜、海沿いに進み鎌倉にある稲村ケ崎にさしかかった時の事である。海岸線は岬が波打ち際まで突き出し、ここを渡る事は不可能と誰もが思った。そこで義貞は大浪の砕ける岩頭に立ち、腰の宝刀を高く捧げ海に向かって祈ります。

    「後醍醐天皇は天照大神の末裔でありながらも、臣下の者の裏切りによって流浪しておいでです。天照大神は時に龍神の姿となって大海原に出現したと聞きます。どうか龍神よ潮の流れを遠くに退け道を開いてくださりたまえ。」こう言って自らが持っていた黄金造りの太刀を抜いて、海中に投げ入れたのである。

    すると、それまでは行き来するのも困難だった海岸線から、一斉に潮が引きはじめ広々とした砂浜が現れた。目の前に広がる光景は兵士たちの士気をあおり、軍は一丸となって鎌倉へ進撃した。翌日新田軍の攻撃により鎌倉が炎上、北条高時以下北条一門が自決し、義貞は、幕府追討を為し遂げたのであった。

    新田義貞 龍神伝説
    新田義貞 龍神伝説

    新田義貞 龍神伝説
    新田義貞 龍神伝説・送り絵

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  • 青森市民ねぶた実行委員会・ねぶた師 北村 麻子


    時は飛鳥時代(628年)檜前浜成、竹成の兄弟が江戸浦(現・隅田川)で漁をしていると、思いがけず金色の身を燦然と輝かせた一体の観音様のご尊像をひきあげた。兄弟の主人・土師中知はこれを拝し、聖観世音菩薩様であることを知り、深く信仰しその教えに従い、のちに出家し自宅を改め寺となし、礼拝供養に生涯をささげたという。これが浅草寺の始まりだといわれている。

    観世音菩薩は、火難、水難、盗難、鬼難などの七難を消し、現世で目に見える御利益を授けるもの、そして同時に死後は浄土に生まれていく。「慈悲の心」をいだき「あたたかい心」で日々を過ごせますように。世界が平和でありますように・・・

    浅草観音誕生
    浅草観音誕生

    浅草観音誕生
    浅草観音誕生・送り絵

    囃子方・太鼓
    囃子方・太鼓

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  • ヤマト運輸ねぶた実行委員会・ねぶた師 北村 隆


    商工会議所会頭賞・優秀製作者賞【総合4位】


    本名を尾形周馬寛行といい、幼名を雷丸という「児雷也」。松浦家の息女「綱手姫」。戦乱を招き、我が物としようとする妖蛇の化身「大蛇丸」。大蛇丸は邪魔になる二人の幼子「雷丸」と「綱手姫」を谷底に投げ込む。しかし二人は谷底に住んでいた仙素道人に助けられ成長する。

    ある日、雷丸は尾形家と松浦家が大蛇丸に滅ぼされた時の夢を見る。仙素道人は、親の仇、大蛇丸を倒すため雷丸には蝦蟇の術、綱手姫には蛞蝓の術を授け「浪切の剣」と探し出し、必ず二人で協力して大蛇丸と戦えと教える。そして雷丸に「児雷也」という名前を与え、二人を夫婦にする。

    場面は、月影照友の養子となり、照秀と名乗る「大蛇丸」に対し蝦蟇の術を使う「児雷也」の秘術を尽くして戦う姿である。

    ヤマト運輸ねぶた実行委員会
    ヤマト運輸ねぶた実行委員会(町印)

    児雷也
    児雷也

    児雷也
    児雷也・送り絵

    囃子方・太鼓
    囃子方・太鼓

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  • 青森山田学園・ねぶた師 北村 隆


    あまりの美しさに白鷺城と呼ばれる姫路城に古くから伝わるお話です。
    この美しいお城の天守閣に妖怪が棲みついているという噂がたちました。ある日、宿直の侍たちの中の一人、森田図書は噂を確かめようと肝試しにひとり天守閣に向かっていった。七階の戸口まで来たとき、どこからともなく青白く目は吊り上り髪は長く背の高い女が現れた。図書は宿直の間の出来事をはなし、自ら名乗り出てここまで来た事を話した。女は図書の勇気に感心し確かに行った証拠として引きちぎられた兜の錣を手渡し、二度と来てはならぬと念をおした。

    その錣は殿様が宝として宝物庫にしまっていた兜の錣であることがわかり天守閣の噂が本当であることを確信した。その天守閣の主は「刑部姫」とよばれる姫路城の守護神で遠い神々の昔からこの地に住む国津神だったといわれる。

    青森山田学園
    青森山田学園(町印)

    姫路城の刑部姫
    姫路城の刑部姫

    姫路城の刑部姫
    姫路城の刑部姫・送り絵

    囃子方・太鼓
    囃子方・太鼓

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  • サンロード青森・ねぶた師 千葉 作龍


    ねぶた大賞・運行跳人賞・優秀製作者賞【総合1位】


    傾奇者として知られる「前田慶次利益」は、戦国大名「滝川一益」の一族であったが「前田利久」の養子となった。しかし、織田信長の命により、家督を利久の弟「利家」に奪われ、愛馬「松風」と共に前田家を去り、豊臣五大老の一人「上杉景勝」に仕え、盟友「直江兼続」らと共に「北の関ヶ原」と言われる合戦で西軍として大活躍した屈強の武将である。合戦後は、禄高僅か五百石ながらも、風流をたしなむ文人としても知られ、文武両道の戦国武士であった。

    サンロード青森・提灯
    サンロード青森・提灯

    戦国武士華「前田慶次」
    戦国武士華「前田慶次」

    戦国武士華「前田慶次」
    戦国武士華「前田慶次」・送り絵

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  • ねぶた愛好会・ねぶた師 諏訪 慎


    平将門は、天慶の乱を起して関八州を席巻するが、平貞盛・藤原秀郷らによって討ち取られ世を去った。将門の遺児・五月姫は、父の無念を晴らさんと京へ上り、貴船明神に祈願をかけた。満願の夜、身も心も真っ赤に染まりついに妖術を授かった五月姫は名を滝夜叉とあらため、反逆の烽火を上げんと下野の国に砦を築く。

    悪行甚だしい滝夜叉姫を討伐せよとの勅命を受けた陰陽師・大宅中将光圀が滝夜叉姫に立ち向かうが、姫は怨念の塊となって鬼となる。激戦の末、光圀は陰陽の術をもって姫の妖術を封じ、調伏するという物語。

    滝夜叉姫
    滝夜叉姫

    滝夜叉姫
    滝夜叉姫・送り絵

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  • JRねぶた実行プロジェクト・ねぶた師 竹浪 比呂夫


    関東一円を征服し、朝廷に反旗を翻すと自らを『新皇』と称した平将門。しかし、朝廷の命を受けた同族たる平氏中心の武士団に討ち取られ、無念の最期を遂げた。戦乱のさなか、辛うじて生き延びた娘は奥州に隠れ住み、名を如月尼と改めた。その弟であり、将門の嫡男である太郎は幼い頃より、武芸を好み、馬を駆けては合戦の知識を学び、父 将門を偲ばせる武士へと成長していった。

    程なくして太郎は、妖しげな蝦墓の術を使う仙人 肉芝仙と知り合う。この仙人から亡き父そして自身の素性を明らかにされると、はや一途に一族の再興を図ろうと一念発起する。妖術を会得すると、父の出生地である相馬から『相馬太郎良門』と名乗りを上げ、全国に散らばった同志を捜す旅へ出る。如月尼は瀧夜叉姫と名を変え、集まった仲間と相馬の古内裏を本拠地として良門を支えた。

     繋ぎ馬の旗を掲げ、宿敵である平氏の揚羽蝶紋を敢えて身に纏い、師たる肉芝仙より授けらるる妖術の修行に心血を注ぐ良門の姿である。今もなお残る、東日本大震災の爪あとからの復興を切に願い、避難生活を余儀なくされる人々が、一刻も早くそれぞれの故郷へ帰る(カエル)日が来る事を祈念するものである。

    JRねぶた実行プロジェクト
    JRねぶた実行プロジェクト(町印)

    相馬太郎良門 妖術を修る
    相馬太郎良門 妖術を修る

    相馬太郎良門 妖術を修る
    相馬太郎良門 妖術を修る・拡大

    相馬太郎良門 妖術を修る・送り絵
    相馬太郎良門 妖術を修る・送り絵

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  • 青森市 酸ヶ湯温泉


    酸ヶ湯温泉は、昭和29年に国民温泉第一号を受けた青森県で横綱級の温泉です。三百年ほど前から開かれていた古い歴史をもつ温泉宿で、その人気は遥か江戸時代から続いています。名物の80坪の総ヒバ造りの大浴場「千人風呂」は、老若男女を問わず、浴効を楽しむ人々で賑わっています。

    温泉の湯はその名の通り強い酸性。元の温泉名は鹿湯(しかゆ)で、すかゆは読みの“しかゆ”が変化したものです。脱衣所は男女別ですが、中は混浴となっています。但し完全な混浴ではなく大浴槽は中央半分に目印があり、そこで男女が区切られています。

    千人風呂の他に、男女別の「玉の湯」があります。千人風呂に洗い場はありませんが、玉の湯には洗い場があって体を洗うことが出来ます。

    混浴マナーの低下から女性客の苦情が多くなり、2004年6月には目印の辺りに間仕切りを設置。今度は間仕切りに対する苦情が増え、同年10月に撤去。2005年4月から常連客が中心となって「混浴を守る会」が発足しています。
    酸ヶ湯温泉 - ヒバ千人風呂
    酸ヶ湯温泉 - ヒバ千人風呂
    酸ヶ湯温泉
    酸ヶ湯温泉

    酸ヶ湯温泉入口
    酸ヶ湯温泉入口

    酸ヶ湯温泉展示ねぶた 鍾馗
    酸ヶ湯温泉展示ねぶた 鍾馗

    ヒバ千人風呂入口
    ヒバ千人風呂入口

    酸ヶ湯温泉番台
    酸ヶ湯温泉番台

    酸ヶ湯温泉・混浴を守る会
    酸ヶ湯温泉・混浴を守る会

    酸ヶ湯温泉・入浴のエチケット
    酸ヶ湯温泉・入浴のエチケット

    酸ヶ湯温泉入浴方法
    酸ヶ湯温泉入浴方法

    酸ヶ湯温泉10ヶ条
    酸ヶ湯温泉10ヶ条

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