2013年 青森ねぶたまつり
2013年8月5日に運行されたねぶたを運行順に紹介します。青森県青森市県庁前で撮影しました。
今年は22台が運行されましたが、私が気に入っているねぶた師と受賞したねぶただけを掲載します。
  • 私たちねぶた
  • パナソニック
  • アサヒビール
  • 市民ねぶた
  • マルハねぶた
  • NTTねぶた
  • 青森菱友会
  • ヤマト運輸
  • 青森山田学園
  • ミスねぶた
  • JRねぶた
  • 東北電力
  • 青年会議所
  • 板金工業組合
  • サンロード青森
  • 日本通運㈱
  • 日立ねぶた
  • に組・東芝
  • 私たちのねぶた自主製作実行委員会・相馬寿朗


    その昔、中禅寺湖(現・栃木県日光市)の領土をめぐり下野国(栃木県)二荒山の神・二荒権現と、上野国(群馬県)赤城山の神・赤城大明神の間で争いが起こった。そこで両神による神戦で雌雄を決することになった。

    赤城山の神は大きな百足に姿を変え、百足の大群を率いて日光へ攻め入った。一方、二荒山の神は蛇に姿を変え、蛇の大群を率いてこれを迎え撃ち、中禅寺湖のほとりの群馬と栃木の県境で激しい戦いを繰り広げました。戦況は赤城山の軍が優勢となり、劣勢に立たされた二荒山の神は常陸国の鹿島大明神から助言を受け、奥州の弓の名手、小野猿丸に助けを求めた。二荒山の軍に加わった小野猿丸は一際大きな百足が赤城の神だと分かり弓を射た。矢は見事に左目に命中し、赤城の軍は逃走し、二荒の軍が勝利したのであった。二荒山の神と赤城山の神が決戦したこの地は戦場ヶ原と呼ばれ、現在の栃木県日光は二荒山の「二荒」から由来しているとも言われる。

    私たちのねぶた自主製作実行委員会
    私たちのねぶた自主製作実行委員会

    戦場ヶ原の神戦
    戦場ヶ原の神戦

    送り絵
    送り絵

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  • パナソニックねぶた会・ねぶた師 北村 蓮明


    昔、仲間と十和田山へ働きに行った八ノ太郎は平等分配の掟を破り、捕えたイワナを一人で全部食べてしまった。急にのどが渇き、三十三昼夜にわたって川の水を飲み続け、とうとう大蛇になってしまった。そして大きな湖を造って住みつき、十和田湖の主となった。

    永い年月が過ぎ、南祖坊という僧が十和田湖を通りかかった。熊野権現に「履いている鉄のわらじが切れた所を永住の地にせよ」と告げられてきた南祖坊は、十和田湖で緒が切れたので、ここに定住しようとして、湖水の主 八ノ太郎と争いになった。  南祖坊の唱える法華経一千巻の文字が利剣となり、八ノ太郎はついに敗れて、秋田の湖に逃げて行ってしまった。今度は八郎潟の主となった。

    青森パナソニックねぶた会
    青森パナソニックねぶた会

    十和田湖伝説「八ノ太郎と南祖坊」
    十和田湖伝説「八ノ太郎と南祖坊」・鏡絵

    十和田湖伝説「八ノ太郎と南祖坊」
    十和田湖伝説「八ノ太郎と南祖坊」・送り絵

    囃し方・太鼓
    囃し方・太鼓

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  • 消防第二分団 アサヒビール・ねぶた師 千葉 作龍


    青森県・平内町に生まれた初代高橋竹山は世界に誇る津軽三味線の奏者である。しかし、その半生は苦難に満ちたものであった。

    幼少の頃病いのため失明、以後生きるために三味線を習得し「ボサマ」と呼ばれ北海道を中心に門付けをする放浪の旅の日々であった。行く先々での艱難辛苦は想像を絶するものであっただろう。このねぶたは、若き日の高橋竹山が白魔と対峙し試される場面。

    高橋 竹山「風雪流れ旅」
    高橋 竹山「風雪流れ旅」・鏡絵

    高橋 竹山「風雪流れ旅」
    高橋 竹山「風雪流れ旅」・送り絵

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  • 青森市民ねぶた実行委員会・ねぶた師 北村 麻子


    上杉謙信は幼名を虎千代といい、幼いときから寺に預けられ僧侶として育ち、最高の指揮統率力をもった戦術家である。毘沙門天を厚く信仰し、自らを毘沙門天の化身という。一方、武田信玄は幼名を太郎、勝千代といい政策にたけ、和歌、詩文の才もあり文武両道を備えた名将であった。

    その上杉謙信と武田信玄が五度にわたり激闘を繰り広げたのが「川中島の戦い」である。場面は上杉謙信が垣盾をなぎ倒し、宿敵武田信玄の本陣に攻め込むところ。謙信が振り下ろす槍をとっさに軍配で受け止める信玄。後世に語り継がれた名場面である。

    川中島
    川中島・鏡絵

    川中島
    川中島・送り絵

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  • マルハニチロ佞武多会・ねぶた師 竹浪 比呂夫


    平安の昔、名将 源頼光は、四天王と数人の家来を従え鞍馬詣に出かけ、その帰り道、京都の北 市原野に差しかかった。そこには、頼光に恨みをもつ盗賊 鬼同丸が牛の群れの中に紛れ、大牛の皮を被って待ち伏せていたのであった。

    四天王の一人、渡辺綱が動かない牛を不審に思い矢を射るや、牛の腹から鬼同丸が躍り出て頼光へ襲いかかってきた。だが頼光、少しも騒ぐことなく太刀を抜き、一刀の下に鬼同丸を退治した。ねぶたは、長剣を振りかざして頼光へ切りかかろうとする鬼同丸と、これを阻止せんと弓をもって身構える渡辺綱の勇姿である。

    京市原野 鬼同丸と綱
    京市原野 鬼同丸と綱・鏡絵

    京市原野 鬼同丸と綱
    京市原野 鬼同丸と綱・送り絵

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  • NTTグループねぶた・ねぶた師 北村 春一


    源氏に捕らえられた景清は牢屋に入れられ、源氏方は平家が遺したとされる宝物の在り処を聞き出す為に拷問を繰り返した。しかし景清は一向に口を割らず「敵からの物は口にしない」と水さえ飲まない、そこで源氏方は妻の阿古屋と娘の人丸を牢屋の前に連れて来て責め、これを見た景清は卑怯な手段に怒りを爆発させ、太い縄を引きちぎり牢の格子を蹴破り大暴れした。

    ねぶたはこの「牢破り」の場面。景清は源氏に生け捕りにされ、獄中で食を絶って自決した逸話から庶民の英雄的存在になり数多くの伝説を残している。最後まで抵抗した景清の姿は敗者の意地と不屈の精神を表し、我慢強く信念を貫く日本人の心を表現している。

    NTTグループねぶた
    NTTグループねぶた

    景清の牢破り
    景清の牢破り・鏡絵

    景清の牢破り
    景清の牢破り・送り絵

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  • 青森菱友会・ねぶた師 竹浪 比呂夫


    商工会議所会頭賞【総合4位】


    前九年の役にて源頼義に滅ぼされた安倍貞任が遺児、高星丸。津軽へと落ち延び、藤崎(現・青森県藤崎町)に拠を定めた。以来、その子孫は代々「安藤太郎」と称し、後に陸奥国津軽地方から出羽国秋田地方を支配した海の豪族、かの「安東水軍」の祖を興したと伝えられる。

    時は流れ、鎌倉は寛喜元年(一二二九)。当主、安東堯季の世。日本海の玄関口たる十三湊、その地を統治していた十三藤原氏と、一族の足固めのためこの重要拠点を手中に収めんとする安東氏の双方が萩ノ台にて激突。見事、堯季軍は敵を散々に打ち破り、十三湊を支配下へ置くことに成功した。この一戦を機に、日本各地および大陸と交易を結び、強大な力を持つこととなった安東氏。天翔ける麒麟が如き破竹の勢いを以て、一族を隆盛へ導かんと進軍し続ける堯季の奮戦に、東日本の復興と繁栄を願うものである。

    青森菱友会
    青森菱友会

    津軽野萩ノ台合戦 奮戦 安東 堯季
    津軽野萩ノ台合戦 奮戦 安東 堯季・鏡絵

    津軽野萩ノ台合戦 奮戦 安東 堯季
    津軽野萩ノ台合戦 奮戦 安東 堯季・送り絵

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  • ヤマト運輸ねぶた実行委員会・ねぶた師 北村 隆


    観光コンベンション協会会長賞・優秀制作者賞【総合5位】


    室町幕府 第十三代将軍 塚原卜伝や上泉信綱など当代一流の剣の達人の教えを受けて「剣聖」「剣豪将軍」と呼ばれる。足利家再興のため邁進していたが、後ろ盾という名目で幕府の権力掌握を目論んだ松永久秀と三好長慶らに二条城で突然襲撃される。

    輝はありったけの刀剣を持ってこさせると 「これは粟田口国綱・・・」 「これは一文字助宗・・・」 などと言い、一つ一つの銘を確かめ床に突き刺して言った。そして十数本全部刺し終えると、四方八方から押し寄せる敵に次々に床にさしておいた刀を手に取り、阿修羅のごとく戦い続けた。足利義輝が松永久秀、三好長慶らを相手に奮戦する場面である。
    ヤマト運輸ねぶた実行委員会
    ヤマト運輸ねぶた実行委員会

    剣豪 足利義輝
    剣豪 足利義輝・鏡絵

    剣豪 足利義輝
    剣豪 足利義輝・送り絵

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  • 青森山田学園・ねぶた師 北村 隆


    全身に見事な刺青を入れ、文武両道で相撲の名手として知られる「浪子 燕青」と色黒で怪力で二挺の斧を得意とし武芸に優れた豪傑「黒旋風 李逵」

    泰山での奉納相撲がにぎわっていた頃、いままでひとり勝ちしていた任原という男を燕青が負かすと任原の弟子たちは小屋を引き倒しあばれだしたという。これを見た燕青と李逵は大いに怒り反撃したという。

    青森山田学園
    青森山田学園

    水滸伝 燕青と李逵
    水滸伝 燕青と李逵・鏡絵

    水滸伝 燕青と李逵
    水滸伝 燕青と李逵・送り絵

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  • ミス青森ねぶた


    ミスねぶた長尾 佳織さん(左) ミスねぶたグランプリ佐々木柚花さん(中) ミスねぶた田中 結理さん(右)

     

    ミス青森ねぶた
    ミス青森ねぶた

     

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  • JRねぶた実行委員会・ねぶた師 竹浪 比呂夫


    市長賞・優秀制作者賞【総合3位】


    江戸時代後期の人気作家、曲亭(滝沢)馬琴作、「南総里見八犬伝」の一場面。

    時は文明十年(1478)の六月。所は武蔵国本郷円塚山のふもと。すり替えられた、宝刀 村雨丸を、夫 犬塚信乃のために取り返そうとした浜路は、逆に網乾左母次郎に刺されてしまう。そこへ、浜路の実の兄である犬山道節が現れ、左母次郎を斬り倒す。瀕死の浜路は道節に、本物の村雨丸を夫へ届けることを懇願するが、その望みは聞き入れられず、息絶える。

    信乃を送った帰り道、円塚山に現れた額蔵(後の犬川荘助)。村雨丸を取り戻すべく道節と討ち合いになる。道節は荘助の珠と村雨丸をもって、火遁の術で身をくらます。荘助の手の中には道節の体から飛び出た珠が残る。道節も又、同じ犬士であることを知るのであった。
    JRねぶた実行委員会
    JRねぶた実行委員会

    八犬伝 円塚山 火遁の術 道節と荘助
    八犬伝 円塚山 火遁の術 道節と荘助・鏡絵

    八犬伝 円塚山 火遁の術 道節と荘助為
    八犬伝 円塚山 火遁の術 道節と荘助・送り絵

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  • 東北電力ねぶた愛好会・ねぶた師 穐元 和生

        
    津軽藩初代藩主津軽為信の三男信枚は、慶長十二年、父為信の死により家督を継承した。二代目藩主となった信枚は、慶長十六年に鷹岡城(のちの弘前城)を築き、津軽地方の政治経済の中心となり、その後、青森を開港して江戸への航路を開設するなど、藩の経済基盤を確立した。家督相続のお礼言上に江戸へ伺候した際、南光坊天海に弟子入りした信枚は、天海の影響を受け、鷹岡城の建設にあたり、「四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)が四方(東西南北)を守護する四神相応の地」の思想を用い築城している。

    また徳川家康の養女であり信枚へ輿入れした満天姫とともに知恵を絞り、津軽藩に降りかかった数々の危機を乗り切り、今日までの繁栄の礎を築いたと言われている。四神のうちの朱雀は、「平安招福」の意味を表しており、ふりかかる災いを取り除き、幸せで円満に日々を過ごすことができるようにとの想いをこのねぶたに託しています。
    津軽信枚と朱雀
    津軽信枚と朱雀・鏡絵

    津軽信枚と朱雀
    津軽信枚と朱雀・送り絵

    津軽信枚と朱雀
    津軽信枚と朱雀・囃子方太鼓

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  • 公益社団法人青森青年会議所・ねぶた師 立田 龍宝


    倭建命は日本の歴史上を代表する悲劇の英雄である。景行天皇の皇子の一人で、幼少の名を小碓命といい、美しい外見とは裏腹に怪力な人物であった。後に倭建命となる。

    東方征伐から帰る途中、伊吹山へ行き、神を素手で討ち取ろうと出立するが、そこに白い大猪が現れる。命はこれを神の使いと思い無視したが、実は神自身の化身で命は失神してしまった。山を降りた命は、居醒めの清水で正気をやや取り戻すが、すでに病の身となり、弱った体で倭を目指して進んだ。 そして能煩野に到った命の足は歩みを止め、心は故郷である倭へ飛んでいた。場面は、命が倭を思い「美しき倭」「倭は美しい」「そんな倭に帰りたい」と、倭を見つめながら「天翔る心」を持ち続けた命の美しく逞しい容姿を表現した。「倭は国のまほろば たたなづく 青垣やまこもれび 倭し美わし」この国偲びの歌を詠って亡くなるのである。

    そして真っ白な鳥と化した命は、伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこに陸を造り、やがてまたその地より天に翔り、青い垣根のように囲まれた山々を覗きながら、透きとおった高く広い大空を飛び、故郷のまほろばを、美しき倭を指して飛んだ。

    倭し美わし
    倭し美わし・鏡絵

    倭し美わし
    倭し美わし・送り絵

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  • 青森県板金工業組合・ねぶた師 北村 蓮明


    風神・雷神とは、人間が怖れを抱くほどの偉大な力を見せる自然現象のうち、最も身近に起こる強風と雷鳴をそれぞれ神格化したものである。農業の守護神である風神と、豊作をもたらす雷神は、農耕には欠かせない大切な神として古くから信仰されている。

    雷神は連鼓を負い、風神は風袋を持った鬼形として表されることが多いが、ねぶたは神通力のある天狗を雷神にたとえ、風神のひょうたんから出た蛇は、景気回復を表している。五穀豊穣と日本の繁栄を祈るものである。

    風神・雷神
    風神・雷神 鏡絵

    風神・雷神
    風神・雷神 送り絵

    囃し方・太鼓

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  • サンロード青森・ねぶた師 千葉 作龍


    知事賞・運行跳人賞【総合2位】


    天上界・高天原の神々より、国生みの命を受けた「伊邪那岐・伊邪那美」の二柱の神は、「天の沼矛」を賜り、天地の間に浮かぶ「天の浮橋」に立ち、泥のように漂う下界をかき回す。すると、矛の先についた塩が滴り落ち八個の島ができた。これを「大八州」という。

    やがて、子孫・大国主命による国造りによって、「日本」が誕生した。そして今、神代の昔から連綿と続く我日本は、世界に誇る繁栄を遂げた。然るに、一昨年の東日本大震災、そして原発事故とそれによる二次被害など尽きぬ災いに憂いている。いま再び日本を創生し、平和な世を築きあげたい願いをこのねぶたに込めた。

    古事記「日本創生」
    古事記「日本創生」 鏡絵

    古事記「日本創生」
    古事記「日本創生」 送り絵

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  • 日本通運㈱ねぶた実行委員会・ねぶた師 柳谷 優浩


    草薙剣は、もとの名を天叢雲剣といい、「三種の神器」の一つに数えられ、皇位継承者の証といわれている。素戔嗚尊が八俣の大蛇を退治したときに、その尾から出てきたといわれる剣で、神剣として天照大御神に献上された。後に日本武尊が東国に出征の際、叔母にあたる倭姫命からこの剣を授けられ、困難を脱したといわれる。

    日本武尊が駿河の国に出征したときのことである。この国の賊達は日本武尊に従う様子を見せて、だまし討ちを考えていた。賊達は尊を広い野原に連れ出し、「この野原の真ん中に沼があります。そこにすむ神は、非常に乱暴者です。あなたの力で沼の神を退治し安心して暮らせるようにしてください」と嘘を言った。尊が沼を進んでいくと誰もいなくなり、火の手があがり、熱さと煙でもうだめかというところを、この剣により草を刈り、火をつけ、その火は霊験の炎となり危機を脱し、その後、尊は見事に東征を成し遂げた。この出来事から天叢雲剣は、草薙の剣と呼ばれ、困難を打ち砕く道具といわれている。ねぶたは、困難に立ち向かいながらも、知恵をしぼりながら、苦難を乗り越える様をあらわしたものである。

    草薙剣
    草薙剣・鏡絵

    草薙剣
    草薙剣・送り絵

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  • 日立連合ねぶた委員会・ねぶた師 北村 蓮明


    ねぶた大賞・最優秀制作者賞【総合1位】


    于吉は中国後漢末期の道士で、護符や神水によるまじないで病気を治し、多くの信者を得ていた。
    一方、孫策はわずか五年で呉の基を築いた天才軍略家で、覇王項羽にならって、小覇王と讃えられていた。

    ある日、城下に現れた于吉仙人を拝みたいと領民はじめ文武諸官まで出かけたのを知った孫策は、その人気に腹を立て人心を惑わす邪教だとして、于吉を咎め捕まえさせる。信者たちの助命嘆願にも耳を貸さず、「雨を降らせることができたら命を助けてやる」と言って于吉に祈祷させるのだが、雨が降ると持ち前の気の強さと短気でますます怒り、結局は殺してしまったのである。

    その夜から孫策は于吉の幻影に悩まされ、病が悪化し二十六歳の若さでこの世を去ってしまう。弟の孫権はその後君主となり五十年に渡り呉を治めた。ねぶたは于吉仙人の幻影に孫策が立ち向かっている場面。

    于吉仙人、小覇王を倒す
    于吉仙人、小覇王を倒す・鏡絵

    于吉仙人、小覇王を倒す
    于吉仙人、小覇王を倒す・送り絵

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  • に組・東芝・ねぶた師 北村 隆


    西法院赤坊主は越後国(新潟県)に伝わる妖怪で、林泉寺の釣鐘を奪い数々の悪行を行っていた。

    幼少期に林泉寺を出家した上杉謙信は、自軍で最も勇敢な児島弥太郎(通称・鬼児島)に退治を命じた。
    弥太郎は単身、林泉寺へ向かい死闘の末、赤坊主を倒し釣鐘を奪い返したという。

    鬼児島弥太郎 釣鐘奪還
    鬼児島弥太郎 釣鐘奪還・鏡絵

    鬼児島弥太郎 釣鐘奪還
    鬼児島弥太郎 釣鐘奪還・送り絵

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