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返す返すも天北線運行当時、声問に降りていれば良かった…
珍しい地名だからそこにYHがあれば確実に降りていました。現役時代の声問駅を撮っているサイトも数が少ないのですが、欲張って宗谷岬まで行かなくとも声問で降りてから宗谷岬に行っていれば当時の写真があったのかも知れませんネ。一度は降りようと思ったのですが、当時の大岬郵便局行きを優先していました。
ちなみに美幸線に行けなくても宗谷岬には行くだろうから、最初から天北線廃線跡は注目していました。ただレンタカーの車窓から見た限りでは、全く面影の無い路盤跡だけが見えていました。ちなみに声問から浜頓別方面に鉄路がカーブしていますので、宗谷岬まで行くと見られないですよね…
猿払以南の天北線は、弊サイトに当時の写真を載せていますので御覧下さい。まぁ何もないところでした。鹿行なる地名は初めて知りました>_<
>普通の地図はどこを探しても「鹿行」の文字はありません.
一つありました.鹿行大橋という橋が北浦にあるので,地図ではそれだけだと思います.
一車線で,途中に「車輌交換所」のある細くて長い変な橋です.かなり「えしけぇ(ぼろい@茨城弁)橋」でしたので架け替えたかもしれませんが.
宗谷本線=旧天塩線,天北線=旧北見線だったことから,両方をつなぐものが「天北」ではないかと思ったのですが,地理的には天塩と北見をつなぐ路線というわけでもないですし,やっぱり地名かな?とおもってもう少し調べてみたところ,一つだけありました.北見と天塩を隔てる丘陵部の峠が「天北峠」という名称になっております.こういっては失礼かもしれませんが,もともとこの間に町があったとも思えませんし,この峠と同様,北見と天塩の間の丘陵地域が「天北」と呼ばれていたか,あるいは,「天北峠のあたり」という意味が地域名として定着したのだと思います.
茨城県にも「鹿行(かぎょう)地域」という言い方が県庁や保健所あたりではありますが,これは「鹿島」「行方(なめかた)」あたりの南東部の海岸線付近(毒ガス騒ぎのある辺り)が相当します.普通の地図はどこを探しても「鹿行」の文字はありません.大洗・鹿島鉄道が国鉄で開業して「鹿行線」となっていたら他県の方には不可解な(地元ではわかりやすい)名称になっていたことでしょうね.
今回の稚内行きは,事前に鉄道のことまで調べている暇がなかったので(天候調査ばっかり!)天北線がどこを通っていたかまで手が回りませんでした.改めて地図を見ますと,レンタカー屋の送迎車で移動中,空港から出た道スジで,土手みたいなところに航空標識がありましたが,あれもきっと天北線のあとではないかと思います.道路に出るときになんとなく「鉄道」の雰囲気を感じた直感を信じて写真でもとっておけばよかったです.声問川の上流に鉄橋跡があったかどうかも,そういうわけで見ませんでした.天北線があそこを通っていると気づいていたら,1時間くらいはあの辺をうろついていたでしょう...
まるたてくんたさんの紹介で、久しぶりに“廃。”を見ました。既に知っていたサイトで掲示板には知っている方も多かったのですが、POPUP広告が頻繁に出るのに閉口して見ていませんでした。MSPゴシックに見慣れているせいか、HG正楷書体PROには違和感を感じるしリンクは遠慮していました。廃線前の現役路線を紹介したサイトは本当に数が少ないので、この路線を今後も続けたいと思います。弊サイトの写真と現在の廃線跡を見比べて廃線跡探訪に役立てている方も多いと聞いていますので…
こちらの天北線跡探訪はヤボ用の翌日、宗谷岬の往復にチラッと見ただけなのですが、かつての路盤跡らしき痕跡が車窓からも見えました。多分声問から稚内に向かう車中だと思いますが、間違いなく海岸線が見えるところを走っていたのだと思います。
ちなみに昭和51年10月1日発行の帝国書院地図には、天北地域や天北地方とは書いていなかったのですが、色々調べて戴いてありがとうございますm__m
“廃。”を改めて見たところ、今でも駅跡を残している路線は多そうですね。有名な美幸線のトロッコ王国もそうですし、広尾線の愛国駅と幸福駅は駅舎と線路がそのまま残っています。標津線の奥行臼が当時の状態を留めているとは思いませんでした。先月は日本最北端の郵便局に寄ったので、今度は日本最東端の郵便局に寄った帰りに標津線の廃線跡探訪を予定しています(いつになることやら…)
>天北と言う地名は地図を見ても載っていませんから造語だと思います。
イメージとしては,日本のてっぺんという感じでぴったりですが(そんなキャッチフレーズが泊まった民宿にもでてましたが),ちょっと気になってヤフーなどで調べたところ,どうも稚内の東からオホーツク海沿いにそって延びる丘陵地帯を「天北地域」とか「天北地方」と呼称していたらしいです.天北線は,もと宗谷本線で,今の宗谷本線(当時,天塩線)が開通後,本線を譲り,北見線と呼ばれ,昭和36年に天北線となったとのことですが,昭和28年ごろにすでに天北石炭鉱業という会社が炭鉱を経営していて,こちらは昭和36年に閉山しているとのことです.(リンク参照)
ちなみに声問地区にある小学校がカーナビでなぜか「天北小学校」だったのですが,そのときにあの築堤(というか,熊笹の盛り上がった土手みたいなもの)が廃線後と気づくべきでした.http://sapporo.cool.ne.jp/shikamk2/haisen/magarihuchi/magarihuchi.html
keiさんと全く同じ野暮用で稚内に行ってきました.(稚内駅までkeiさんを迎えに行きました..笑).空港からレンタカーの引渡し場所(声問郵便局脇の広場)まで行く途中,国道へ左折する手前で昔道路でもあったのかな?と思うような短絡ルートが国道側に延びていましたが,先ほど古い地図をみたら,これが天北線の跡地だったのですね!(事前調査していけば良かった!!)
そういえば,国道左手に工場みたいなのとかちょっとした集落みたいなのがありその外れにお店があって,声問会館やら広場やら郵便局やらあって,交差点をすぎたら稚内の町にむかって左に車線がふえておりましたが,最初に見えた集落風の場所が駅のあったところ.そして左側に増えた2車線はまさに天北線の路盤を流用したものだったのです.
はからずも廃線跡を車で走ってしまったようです.
最初に作ったHPが天文だったので、そちらに一番力を入れています。
天北線…名前がいいですよね♪天北と言う地名は地図を見ても載っていませんから造語だと思います。線路名は深名線のように深川⇔名寄間を結ぶから深名線と名付けられるのですが、天北線にはそれがありません。多分北の果てをイメージして名付けられたのだと思います。
浜頓別YHは私も行きたかったのですが、行けませんでした。どうしても便利な稚内まで足を運んでしまいます。郵便の掲示板にもお越し戴いてありがとうございますm__m 郵便局は一番来客数も少なくやる気のないコンテンツですが、資料だけは豊富で写真の容量が多いため50MBを超えています。鉄道のページも30MBを超えているので、別のサーバーに画像を入れています。
掲示板の写真は今までSLだったのですが、稚内に行ったのを機に浜頓別駅名標へ換えました。大岬郵便局に行った際に写真を撮った記憶があるので、天北線北部の写真もあるはずなのですが、どうしてもFILMが見つからない状態です。いつ見つかるか分からない状態ですが、奇跡的に見つかったらお知らせします。
現在の稚内駅は撮影したので、天北線の稚内駅に新規追加しました。あまり当時と作りが変わっていないようです。北防波堤ドームは携帯カメラで撮ったので、後日upする予定です。ちなみに天北線の後は南稚内の稚内YHに泊まったので当時の稚内駅は見ていませんでした…
ちなみに稚内駅近くの稚内港から樺太行きの船が出ていますが、片道20000yenするそうです。距離は青森〜函館間しかないのに高いですよね>_<
浜頓別は何度か通過はしてますが、のんびりと過ごすのによさそうな場所ですね。何度か浜頓別のYHに泊まろうと思いつつ未だに泊まっていませんが、天北線が廃止されてからは訪れる人が随分少なくなったと聞いてます。その天北線ですが線名がいかにも「北の果て」を連想させ私は好きでした。宗谷本線からの変更らしいですが「天北」という地名を経由しているのでしょうか。稚内でのヤボ用は郵便の掲示板で拝見しました。稚内といえば、稚内駅からもうすこし先の北防波堤ドームまで線路を延ばし、礼文・利尻航路やサハリン航路の船がそこから発着するような光景をがいつか見ることができないものかとあの残された防波堤を見るたび思います。
ken様のページは表紙が替わりましたね。
最初相生線のコンテンツの下にあると思ったのですが、相生線のページの下にありました。
手宮線は痕跡しか残っていないような状態ですが、トロッコがあることで往時の風情を留めていますね。小樽から札幌へ人口が流入しているので、手宮線も線路を剥がされずに住宅化を免れているようです。
先週ヤボ用で稚内に行きました。出来れば美幸線跡と仁宇布のトロッコを見たかったのですが、時間の関係で行かれませんでした。その代わりと言ってはなんですが、宗谷岬を往復する途中で天北線の廃線跡をチラッと見ました。声問辺りから海が見えたはずなのですが、線路はすっかり取り払われて昭和63年8月2日に乗った記憶がウソのように無くなっていました。現在の宗谷本線ができる前は天北線が宗谷本線だったのですが…
ちなみに青森から鉄路で稚内に行きましたが、列車の本数が幹線なのに運行本数が少なくて苦労しました。駅名標はJR形式ですが、駅舎は国鉄当時のままが多かったですね。それと稚内を出てから名寄までは携帯の電波も届かないようで、駅名標の寂れ方も深刻なものがありました。もしあのまま美深で降りたら、もう旭川行きしか列車が無かったのです。美深で降りなくて良かったのかどうか…?