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津軽ごだく帳

よくきてけだのぉ〜掲示板の写真は“呉越軍談 伍子胥奮戦”(鏡絵)だはんで。
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リンクのお願い  投稿者:絵描ぎ 山内和人  投稿日:2007年 6月29日(金)13時00分18秒
  こんにちは。弘前ねぷたまつりまで残すところ1ヶ月あまりとなりバタバタしております。そのような中、半年に1度のHP更新作業をしております。そこでお願いではありますが、貴方様のHPへのリンクを張らさせて頂きたく本メールにてお願い申しあげます。

http://www.neputaya.com

 

さすが…  投稿者:kei  投稿日:2007年 6月24日(日)23時10分49秒
  絵描ぎ 山内和人様、御無沙汰しております。

さすがに絵師の方は、目の付け所が違いますね。自分でもサイトで“大真夫人”を検索したところ、1982年の小栗山ねぷた愛好会で故・長谷川達温先生が描かれた“大真夫人”と1964年の見送りの構図が全く同じでした。
それでは、1964年の見送り絵の資料を訂正してupしますね。

http://ameblo.jp/megomegoco/

 

おそらく・・・  投稿者:絵描ぎ 山内和人  投稿日:2007年 6月23日(土)14時40分52秒
  1964年の弘前大学ねぷたの次の写真(見送り)は竹森節堂先生筆「列仙伝 大真夫人」です。どこの団体かは・・・?大真夫人(この構図)は現在でも多くの絵師たちに描き継がれている竹森先生の名作のひとつです。

http://www.neputaya.com

 

ありがとうございました  投稿者:チロル  投稿日:2007年 6月23日(土)10時32分28秒
  丁寧な返答、ありがとうございました。
教えていただいた本を見て、参考にしてみます。
 

扇形の由来  投稿者:kei  投稿日:2007年 6月18日(月)22時20分8秒
  チロルさん、初めまして。サイト管理者のkeiです。以下の記述元を知りたいのですね。

※なぜねぷたは扇形なのか?
ねぷたの殆どは扇形をしています。ではなぜ扇形が主流となったのでしょうか?それは津軽藩の藩祖・津軽為信の幼名が扇丸だったことに由来していると言われます。ねぷたの開きの部分には牡丹が描かれていますが、これは津軽家の家紋だったと言われています。他藩のような国換えも無く、藩主が同じ地に居続けたことで津軽の文化は発展してきました。ねぷたもそうした影響を強く受けています。それでは弘前ねぷたについてもう少し深く掘り下げてみましょう。

…これは私のオリジナルですが、強いて言うならねぷた運行の際に流れるアナウンスからの抜粋です。また、昔よく作られた人形型の組ねぷたより制作費が安価で作りやすい…と言う記述もありますね。事実、戦後から扇形ねぷたが増えました。
これについては、数多くの資料から文面を独自にアレンジしたもので出元は不明です。弘前大学が発行している“津軽の華”には載っていない文です。夏になると発行される路上社のねぷた本が参考になると思いますので、弘前の紀伊国屋で見るか古本屋で調べて見てください。これからも色々とねぷたを研究して行きますので、資料としても御覧戴けると幸甚です。

http://ameblo.jp/megomegoco/

 

由来について  投稿者:チロル  投稿日:2007年 6月18日(月)17時13分14秒
  初めまして、チロルと申します。
今、大学のゼミでねぷたについて調べていて、パソコンで検索してみたところ、こちらのサイトを見付けて拝見しました。ねぷたのことがとても詳しく書かれていて、とても参考になります。
そこで、由来・解説の『なぜねぷたは扇形なのか?』をどの書籍等で調べたかおしえていただけませんか?
書き込みの表現等にに至らない部分があればすみません;
返答いただけると助かります。
 

見送り絵  投稿者:kei  投稿日:2007年 5月28日(月)21時03分26秒
  葛西様、初めまして。弊サイト管理者のkeiと申します。
スゴイ方からカキコして戴いてありがとうございます。

1964年に竹森節堂絵師が描かれたねぷた絵の調査は、弘前大学が発行している“津軽の華”を参考にしました。鏡絵は“呉越軍談 伍子胥奮戦”で間違いないのですが、見送り絵が“伯羸女”となっています。見送り絵には節堂先生の印が二つ押してあるのに対して、弊サイトでupしてある見送り絵の印は一つだけです。これも節堂先生の絵ではない証拠となります。
津軽の華を御覧戴ければ違いが分かると思います。ちなみに津軽の華は転載不可なので、弊サイトと掲示板では写真を紹介することが出来ません。悪しからず御了承下さいm(_ _)m

また私も1974年の平将門血戦の図は長谷川達温先生だと思ったのですが、絵の画風が似ている方は多数居て画題以外に確証出来る資料がないことから、絵師は不明とさせていただきます。この写真の見送り絵があれば、絵師の印が押されてあるはずなので判明します。あいにく鏡絵しか貸し出しされなかったので、未だもって絵師は不明となります。

http://ameblo.jp/megomegoco/

 

平将門血戦の図は・・・。  投稿者:葛西孝志  投稿日:2007年 5月27日(日)23時48分36秒
  団体名は私も知りませんが、作者は長谷川達温で間違いない筈です。  

恐らく節堂!?  投稿者:葛西孝志  投稿日:2007年 5月27日(日)23時37分47秒
  1964年の弘大ねぷたの次に載っている、団体・作者共に不明の見送り絵は、恐らくは竹森節堂の作と思われます。  

古いねぷた絵  投稿者:kei  投稿日:2007年 5月17日(木)00時35分56秒
  unagi様、初めまして。
最近ブログとかも始めてやる事が多く、なかなかこちらまで手が回りませんが、たまに弊サイトも更新します。桜の季節には帰省出来なかったのですが、ねぷただけは万難排してでも撮影のために帰省したいところです。

古いねぷた絵は団体名や絵師の資料が極端に少なくて弘前図書館で調べたものの、まだ不明の箇所が残っています。現在とは違って色使いが少なくて逆に新鮮ですね。
何と言っても、棟方志功画伯が描いたねぷたが運行されている写真を入手出来たのは大きいです。棟方画伯に関しては、著作権の問題が厳しくて弊サイトでは棟方写真の使用を禁止しております。そのため新聞記事は出せなかったです。代わりに新聞記事に書かれていた内容を抜粋して1971年のねぷたに書いていますので、今一度御覧下さい。

また、故人のねぷた絵が見られるのも嬉しいです。三浦呑龍さんを筆頭格とする樽書き法は、下絵を描かずに巨大な和紙に向かって一気に描き進む画法です。これは石澤龍峡先生が始めた画法で、行書体とも言えます。この画法の系譜である石澤龍峡先生の遺作が1980年に描かれたねぷた絵です。これは弘前市役所のねぷたですが、鏡絵と見送り絵を描き終わってからお亡くなりになったそうです。肩と言われる町内の名称を書く部分と前ねぷたは、三浦呑龍さんが描かれたと当時の新聞記事にありました。

上の画像も故竹森節堂先生が描いた絵で、節堂先生が始めた画法は下絵画法とも楷書体とも真書法とも言われます。先に1/10の下絵を描き、更に十倍に拡大して描く方法をとっています。近代のねぷた絵は、二人の巨匠から弟子に受け継がれて描かれてきました。現代では師匠を持たず、独学でねぷた絵を描く絵師が多いのも時代の流れでしょうね…
節堂先生は、お亡くなりになるまで弘前大学のねぷた絵を描かれたそうです。

http://ameblo.jp/megomegoco/

 

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