尾島ねぷたの由来

弘前城天守閣

◆弘前市とのつながり
 尾島ねぷたまつりは上州の夏の風物詩として定着し、県内外から2日間で約10万人もの見物客で賑わうまでになりました。
 弘前ねぷたが初めて尾島の夏祭りに出陣したのは昭和61年まで遡ります。当時、盆踊り・八木節と花火が中心のまつりに地元商工会青年部の熱意と弘前市青年会議所のメンバー、津軽情っ張り太鼓の会、弘前市七夕会の方々の多大なる援助と尽力によりねぷた出陣が実現しました。そして、このねぷた出陣実現の橋渡しをしてくれたのが、400年もの時を超えて連綿と受け継がれ、培われて来た先人達の歴史でした。


◆江戸時代は津軽藩の飛び地

 豊臣秀吉により津軽3郡等4万5石の所領を安堵された、津軽藩初代藩主津軽為信初代藩祖・津軽為信(ためのぶ)公は秀吉没後の慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、2000余の兵を率いて東軍(徳川方)として戦に参加しました。その際美濃国(岐阜県)大垣城攻撃での戦功により、翌慶長6年「御馬飼所」として上州8ケ村(大舘村、安養寺村、出塚村の一部:以上尾島町、赤堀村、村田村、下江田村:以上新田町、女塚村、境村:以上境町)2千石を加増され4万7千石となると同時に、津軽藩の飛び地が上州に出来ました。この時、加増された2千石のうち約半分を尾島町の地域が占めていました。また大舘村には代官を居住させ、これを管轄させる他に津軽藩の陣屋が置かれ、参勤交代など江戸出府の折りには藩主も滞在しました。東楊寺(大舘地区内)境内には、代官を務めていた足立氏の五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。
 津軽藩二代藩主信牧(のぶひら)公は、側室の辰子(又は辰姫、西軍〔石田方〕石田三成の三女)をここ大舘村に住まわせました。辰子はこの地名から大舘御前とも呼ばれ、この地で信義公を産みました。信義公は寛永8年(1631)13歳で津軽藩の家督を相続し、三代藩主となりました。なお、辰子の墓は、藩主信義公の生母として弘前市の貞昌寺にあります。
 信義公が明暦元年(1655)死去すると、信政(のぶまさ)公が四代藩主となりますが、10歳という若さなので信義公の弟信英(のぶふさ)公が後見職に任命され、信英公は明暦2年(1656)上州の飛び地2千石と津軽黒石領、平内領併せて5千石の所領を分知され、黒石(青森県黒石市)に陣屋を置きました。後に上州の飛び地は津軽黒石藩領として元禄11年(1698)まで統治されました。また、大舘区内にある八幡宮の社殿は天和2年(1682)津軽黒石二代藩主信敏(のぶとし)公が建立したと伝えられることから、当地と津軽藩との密接なつながりを物語る史跡が数多くあります。 信牧と大舘御前の画像はこちらの下段です。

◆400年の時を超え交流を再会する

 これらの史実を講演会で聞いた弘前市青年会議所のねぷた絵とねぷた絵師メンバーが、昭和60年6月1日に
尾島町を訪問。地元商工会青年部との交流が400年の時を超えて再開されました。
 昭和61年のねぷた初出陣以来、2年後には弘前市の茂森新町から大型ねぷたを譲り受けるなど尾島町でもねぷたに対する意気込みが盛んになり、今では祭りが近づくと町内にはねぷた囃子の太鼓の音が聞こえるようになりました。
 平成3年11月25日には弘前市と尾島町との友好都市締結の調印が行われ、まつりのみならず産業や文化、人の交流も活発に行われています。

出典:「群馬歴史散歩」第160号

※現在、尾島町・新田町は太田市と合併、境町は伊勢崎市と合併しています。

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