2012年8月5日に運行されたねぶたを運行順に紹介します。青森県庁の向かいで撮影しました。 |
2012.8.5 青森菱友会羅漢は阿羅漢の略称で、一切の煩悩を断ち修行を完成させた佛弟子の最高の聖者のこと。 青森県弘前市、太平山 長勝寺 蒼龍窟には津軽藩縁の五百羅漢像が安置された。巨大地震、台風や大洪水など天変地異による大災害に喘ぎ、苦しむ時、禽獣と共に神通力を振るい人々の難儀を救う羅漢達。 一度念ずれば、鉢からは泉のように水が湧き出し、手にした香炉の煙は赤々とした灯火となって世を照らす。 |
2012.8.5 消防第二分団 アサヒビール約六百年前に津軽の鶴田町を統治していた清水城主、間山之守忠勝はある日美しい土地の娘、白上姫と出会い恋に落ちる。しかし二人は結ばれること無く、やがて姫は悲しみのあまり大溜池に身を投じてしまう。そして姫は龍と化し忠勝を苦しめ続けたという。 |
2012.8.5 青森山田学園邪馬台国女王となった卑弥呼は鏡を好み、景初3年(239年)洛陽に使者を送った際、百枚の三角縁神獣鏡を下賜された。 すなわち太陽の光を反射し人々を驚かせたのが鏡である。卑弥呼が女王になってから、その姿を見たものは少なく卑弥呼が神のお告げを聞き、それを弟が人々へ伝えていたと言う。 |
2012.8.5 日本通運㈱ねぶた実行委員会このねぶたは、伎楽の様式美と聖徳太子の姿を借りて国境を越えた国際的な交流への感謝と喜びを表したものである。更に、何よりも大切な「和」が世界へと広がっていくことを祈願したものである。 |
2012.8.5 JRねぶた実行委員会蝦夷の首領である阿弖流為は戦いの度に朝廷軍を大敗させてきたが、延暦二十一年(802年)、北上してきた征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城(岩手県)を造営し始めると、これと戦うことなく、同志の母礼と共に一族を率いて投降した。人心の懐柔や、仏教文化の伝播に努めた田村麻呂との間に堅い絆があり、阿弖流為は身を捨てて平和を選択したのである。上京後、田村麻呂の懸命の助命嘆願もむなしく、ふたりは斬刑に処せられた。 |
2012.8.5 日立連合ねぶた委員会源為朝は為義の八男で五歳から弓を習い、天下一の強弓で敵を震え上がらせ、戦いにも巧みな豪勇鎮西八郎為朝は痘鬼神をも退散させたという。平安の昔から業病はすべて厄神のしわざという俗信があり、為朝が世に勇名を轟かせてからは、「鎮西八郎為朝コノ家ニ在リ」のお札を貼ってある家には近づかなくなったという。 鎮西・・・熊本の別名 |
2012.8.5 青森県板金工業組合イザナキとイザナミの二神は高天原から地上に降り、協力して日本列島を生み、それが終わると今度はたくさんの神々を生んだ。しかし、火の神ヒノカグツチを生んだことで、イザナミは火傷を負い命を落としてしまう。残されたイザナキの悲しみはヒノカグツチへの怒りに変わり、とうとう十拳剣で命を奪ってしまった。コントロールできない恐ろしさを秘めた火の猛威を防ぐにはすぐに切り殺すしかなかったのだ。そしてその亡骸からも多くの神々が生まれた。 ヒノカグツチの誕生と死には、破壊の力を持つと同時に制御することで生成の力をもつ「火」の性質が表されている。また、火の鳥は不死鳥ともいわれ、復活と再生を象徴している。 |
2012.8.5 県庁ねぶた実行委員会上杉謙信(初名:長尾景虎)は、内乱続きであった越後の国を統一し、産業を振興して国を繁栄させた戦国武将である。上杉謙信は、他国から侵攻された近隣武将や窮地に陥っている敵将の支援を行うなど、非常に義を重んじていた。また武神毘沙門天を厚く信仰し、「毘」の一字を旗印に掲げ、時には自ら毘沙門天の化身と称したという。 |
2012.8.5 青森市民ねぶた実行委員会三皇五帝と呼ばれる伝説の古代中国の皇帝、黄帝は漢民族の祖と言われている。その皇帝が中原の支配権を賭けて戦ったのが蚩尤と呼ばれる怪物である。 四目六臂で人の身体に牛の蹄を持ち、頭に角があり、魑魅魍魎を味方し、厚い濃霧を起こして敵を苦しめた。それに対し黄帝は最も格上の龍と言われる翼を持った應龍を味方につけ、きという動物の皮を用いた太鼓を打ち鳴らし、立ち向かった。その爆音は五百里四方へ轟き、霧は晴れ蚩尤軍は黄帝軍に打ち負かされたという。 |
2012.8.5 青森パナソニックねぶた会源義平は頼朝の兄で、武名の誉れ高く豪勇であるところから「鎌倉の悪源太」と呼ばれていた。騙し討ちにされた父義朝の無念を晴らそうと京の都で平清盛の命を狙うが逆に捕らえられ、介錯人の難波恒房をにらみ「雷となって汝を蹴殺さん」と云い残し斬首されてしまう。仁安二年七月七日、清盛一行が摂津国の名瀑布引の滝に詣でたところ、一天にわかにかき曇り雷神となった悪源太義平が恒房を打ち殺しに現れる。京の都にも六波羅にも雷が落ち多くの人々が命を失い、清盛は大般若経を僧に読経させ義平の霊を鎮魂したのである。 |
2012.8.5 青森パナソニックねぶた会このねぶたは、若き日の牛若丸が、大天狗より兵法の奥義の伝授を受けた一幕を表したものである。 |
2012.8.5 サンロード青森このねぶたは、坂上田村麿と勇敢に戦った蝦夷の英雄「阿弖流為」が「藤原清衡」と共に震災の犠牲になった方々への鎮魂と復興への檄を表現したもの。 |
2012.8.5 マルハニチロ佞武多会上半身裸形で、筋骨隆々とし、憤怒の相で外敵を威嚇する。邪鬼を懲らしめ、あらゆる災いを振り払う阿形金剛力士。大きく口を開き、復興の始まりを叫ぶその英姿に、東日本の再生と、この国の安寧を切に祈る。 |
2012.8.5 NTTグループねぶた平家追討に功績をあげた源義経だったが、兄の頼朝に疑惑を持たれ鎌倉方から追われる身となり、弁慶らと供に西国へ逃れようと摂津の国大物の浦へ到着した。義経一行が海上に出るや否や突然暴風に見舞われ、波の上に壇ノ浦で滅んだ平家一門の亡霊が姿を現した。なかでも総大将であった平知盛の怨霊は義経を海底に沈めようと薙刀を振りかざして襲い掛かった。刀を抜いて亡霊と切り結ぶ義経に弁慶は「刀では敵わないでしょう」と言い、数珠を揉み経文を唱え必死に五大明王に祈るとその祈りの力によって亡霊は鎮められ彼方の沖へ消えていった。 |
2012.8.5 社団法人青森青年会議所武田信玄と上杉謙信は1553年(天文22年)から1564年(永禄7年)の永きに亘り、北信濃の支配権を巡って川中島に対峙した。数度に及ぶ激しい戦火を交えた1561年(永禄4年)9月、夜明けの朝霧を裂き、静寂を突き破るような雄叫びが信玄の本陣遥かに響き渡る。決戦が近いことを予感した信玄が将座に向かって歩を進めたまさにその時、謙信自らが、僅かな家臣を率いて突入してきた。太刀を頭上高くに煌かせ、焔を纏い天を舞う龍の如く疾走する謙信。長年に亘る宿命を一騎打ちで決着しようという決死の奇襲戦であった。太刀抜く間も与えず眼前に踊りこんだ謙信の一撃を、大虎の如き胆力をもって、軍配一振りで受ける信玄。死力を尽くした総大将同士の一騎打ちは、決着がつかず痛み分けとなった。謙信と信玄、龍虎と称される両雄の相対した激戦は、後の世に語り継がれる一戦となった。 |
2012.8.5 ヤマト運輸ねぶた実行委員会宮本武蔵は人並みはずれた強力の持ち主で、片手で刀剣を使いこなすことが出来た。これが後に二刀流の技術を生み出すに至った。 |
2012.8.5 青森自衛隊ねぶた協賛会ある雪の日、旅の僧が貧しい老武士、佐野源左衛門常世の家に一夜の宿を求めました。旅の僧に粟飯を出し、薪がないので大事にしていた盆栽「梅」「桜」「松」の鉢の木を切って、囲炉裏にくべ、火を焚き、精一杯のもてなしをしました。常世は僧に自分が一族に佐野庄三十余郷の領土を押領されたこと、落ちぶれていても幕府に一大事が起これば一番に鎌倉に馳せ参じ、一命を投げ打つ所存であるとその覚悟を僧に話しました。その後、幕府から動員命令が下り常世も先を争って駆け付けました。常世は執権に召し出され、あの日の僧が前執権北条時頼だったことを知りました。時頼は常世の言葉に偽りがなかったことを賞し、先日の約束を果たしたことを誉め、その志にむくいるため、奪われた佐野庄三十余郷を常世に返し与えただけでなく、薪にされた三鉢の盆栽「梅」「桜」「松」にちなんで加賀国梅田庄、越中国桜井庄、上野国松井田庄の三つの荘園を新たに恩賞とし与えるのでした。 |
2012.8.5 私たちのねぶた自主製作実行委員会東北地方には義経が生き延びて北海道へ向かう義経伝説がいくつも残されている。 衣川の館に火をつけ自害を装って、北へ逃れた義経は三厩に辿り着いた。近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を挟み、渡ることができなかった。義経は観音様に三日三晩祈願した。満願の晩に白髪の翁が現れ、「三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい」と云って消えた。 翌朝、岩穴には三頭の龍馬がつながれていて、義経はそれに乗り無事蝦夷が島に渡ることができた。それから龍馬がつながれた岩穴を厩石、この地を三馬屋(三厩)と呼ぶようになった。 |