2011年8月6日に運行されたねぶたを運行順に紹介します。青森市堤町の国道4号線で撮影しました。 |
2010.8.3 マルハニチロ佞武多会「斗魁」とは、北斗七星の第一星・魁星より成る柄杓の升型部分の四星が神格化したものである。 中国では、古くから高級官僚・科挙試験合格の神とされ、後に文章の神、文学の神として崇拝されてきた。 魁の字が鬼と斗(升)よりなることから、右手に筆、左手に升を握り踊る鬼神の姿で描かれる。 「文昌星」は、斗魁の横に輝く上将・次将・貴相・司命・司中・司録の六星で、斗魁と共に文学を司る神とされている。これら二つの星座は、日本に渡来してから北斗信仰に習合されて、想像上の吉祥海獣である鯱を従えた、天下奉平をもたらす神へと姿を変えた。青森市の市章は、この北斗七星に由来したものである。 |
2010.8.3 サンロード青森四神とは、中心を基準に東西南北を守ってくれる神獣のことで古より尊ばれています。 その四神の種類は、東の守護獣「青竜」、西の守護獣「白虎」、南の守護獣「朱雀」、北の守護獣「玄武」です。上記に黄竜を含めて五獣とも言われます。黄竜は中央を守っているとされ四神の中心的存在であり、四神の長とも呼ばれています。 風水に置き換えると、北東の方角に鬼門があり、南西の方角に裏鬼門があります。家などに配置する場合、角を無くする鬼門くずしを行うか鬼門に神社のある方角で家を建てると良いそうです。 |
2010.8.3 青森山田学園毘沙門天は七難を避け七福を与える北方守護の神仏であり、仏教とそれを信じる人々を守る四天王の一人である。 その勇壮な姿から武道の神といわれているが、七福神の中にもいるように財宝、福徳をつかさどる神ともいわれている。 また、文殊菩薩の真言の功徳は、数ある菩薩の中でも最も優れた智慧を持つぼさつである。獅子にまたがり、右手に剣、左手に経巻を持つのが一般的とされているが、経巻は智慧の象徴であり、剣はその智慧が鋭く研ぎ澄まされている様を表し、獅子はその智慧の勢いが盛んであることを表現している。 |
2009.8.6 日立連合ねぶた委員会真田幸村は最期まで豊臣家への忠誠を貫き、「日本一の兵」とうたわれ、徳川家康を震撼させた豪胆勇猛な武将である。一方、独眼龍伊達政宗は、鴉軍と呼ばれる黒備えの勇猛な兵を率いて戦場に臨む。奥州から天下をにらみ、「遅れてきた天下人」とその才を称賛される野心あふれる武将である。この二人が豊臣方、徳川方として大坂夏の陣で激突する。 |
2010.8.3 消防第二分団 アサヒビール公孫 勝は、中国の小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の登場人物。天間星の生まれ変わりで、序列は梁山泊第四位の好漢。あだ名は入雲竜という。道号は一清道人。梁山泊では副軍師を務める。修行中の道士であり、その道術で梁山泊軍の危機を救うことも度々だった。 豪傑と評判の高かった晁蓋に、北京の知事から宰相に送られる誕生日祝いの品々(生辰綱)は、民の血税によってなされた不義の財であるから奪ってしまおうと持ちかける。晁蓋、呉用らとともに見事に生辰綱を奪取して、梁山泊に身を寄せる。 道術の仙人・羅真人の弟子であり、風を呼び神兵を呼び寄せるなど強力な法術を使用し、柴進救出時における妖術使い高廉との戦いを皮切りに、芒碭山の首魁樊瑞、遼の賀重宝など多くの妖術使いとの戦いで、度々梁山泊の窮地を救う。 |
2010.8.3 日本通運㈱ねぶた実行委員会火天とは、火を神格化したものであり、仙人の姿をしており、仏教における天部の一人で、十二天の一人となっている。 水天も、また、仏教における天部の一人である。神仏習合により、安産・子育ての神とされ、子供の守り神として信仰されるようになった。火と水はかけがえのないもの。均衡が保たれた穏やかな自然の下で火と水が出会い、心も体も温まる湯が沸く。湯をいただくことによって、火と水の理を知り、地球に感謝し、守られた自然環境を子孫に渡したいものだ。 |
2009.8.6 青森パナソニックねぶた会悪疫退散の勅命を受けた洪信が詔書を張天師に渡すために竜虎山をおとずれ、伏魔之殿の扉を開き、封印していた百八の魔王を下界に解き放つ。この星を宿した好漢たちが、のちに梁山泊に集う事となる。 |
2009.8.6 社団法人青森青年会議所村上 義光(むらかみ よしてる、生年不詳 - 1333年4月15日)は、鎌倉時代末期の武将。 『太平記』では元弘の変の頃、笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉した9名の1人として登場する。道中、十津川郷で敵方の土豪・芋瀬庄司に遭遇し、親王一行はその通行を乞うが、芋瀬は「幕府へ面子を立てる為、通すかわりに名のある臣を一人二人、もしくは一戦交えた事を示すために御旗を寄越せ」と返答してきた。そこで供奉した9名の1人、赤松則祐が親王の御為と名乗り出て「主君の危機に臨んでは自らの命を投げ出す、これこそが臣下の道。殿下の為に、この則祐、敵の手に渡ったてもかまわない」と言った。しかし、供奉した9名の1人、平賀三郎が「宮の御為にも今は有能な武将は一人たりと失ってはいけない。御旗を渡して激闘の末逃げ延びた事にすれば芋瀬庄司の立場も守れる」と言い、親王はこれを聞き入れて大事な錦の御旗を芋瀬庄司に渡して、その場を乗り越えた。 遅れてやってきた義光も芋瀬庄司に出くわすが、そこには錦の御旗が翻っていた。義光は激昂し「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを!」と、敵方に奪われた御旗を取り返し、旗を持っていた芋瀬の下人をひっつかみ、4、5丈(1丈約3メートルなので、12~15m)ほどかなたに投げつけた。義光の怪力に恐れをなし芋瀬庄司は言葉を失い、義光は自ら御旗を肩に懸て親王一行を追いかけ無事に追いついた。 |
2010.8.3 ヤマト運輸ねぶた実行委員会不動明王には除災招福、戦勝、悪魔退散などさまざまな功徳がある。神聖なる滝の中に現れた、炎に包まれた不動明王のお姿に日本の安泰を願いたい。 |
2010.8.3 に組 東芝木曽義仲討伐のために、平家は北陸へ軍隊を差し向けます。大将軍維盛、通盛は先に進みましたが副将軍経正、忠教らはいまだ近江の国塩津、貝津に控えていました。経正は詩歌管弦に長けた人で、琵琶湖上の竹生島へ戦勝祈願へ向かいます。頃は旧暦四月十八日のこと。木々の緑はまだ春の名残を残しているようです。谷間の鶯の声は衰え、それに代わってホトトギスの初音がゆかしく響きます。 竹生島に上陸した経正は弁財天の御前で経を詠みます。しだいに日が暮れてきて、とてもいい雰囲気です。住込みの僧たちが、「あなたが琵琶の名手であることは有名です」といって経正に琵琶を手渡します。 経正が上玄・石上という秘曲を奏でると、宮のうちはしんと静まりかえり、弁財天が感激のあまり示現したのでしょうか経正の袖の上に白竜が現れました。このしるしに経正は涙を流し、一首の歌を詠みあげます。 ちはやぶる 神に祈りのかなえばや しるくも色の あらはれにける (弁財天に私の祈りが届いたのだろうか はっきりとしるしの現れたことよ) 経正一行は戦の勝利を確信し、また舟に乗り、竹生島をあとにするのでした。 |
2010.8.3 青森菱友会征夷大将軍 坂上田村麻呂は、陸奥へと攻め入った。この「蝦夷征伐」に対し徹底抗戦したのが津軽蝦夷であり、その反撃は大いに田村麿を悩ませた。そこで田村麿は北天に輝く北斗七星に先勝を祈ると、夢枕に妙見菩薩が現れ、「仮面をかぶって征圧せよ」と七個の鬼面を授かった。 この鬼面をもっての攻撃で勝利した田村麿は、蝦夷平定後これを納めて妙見宮として崇め祀ったという。これが現在の大星神社である。 |
2009.8.6 青森県板金工業組合14世紀頃に書かれた『土蜘蛛草紙』では、京の都で大蜘蛛の怪物として登場する。酒呑童子討伐で知られる平安時代中期の武将・源頼光が家来の渡辺綱を連れて京都の洛外北山の蓮台野に赴くと、空を飛ぶ髑髏に遭遇した。不審に思った頼光たちがそれを追うと、古びた屋敷に辿り着き、様々な異形の妖怪たちが現れて頼光らを苦しめた、夜明け頃には美女が現れて目くらましを仕掛けてきたが、頼光はそれに負けずに刀で斬りかかると、女の姿は消え、白い血痕が残っていた。 それを辿って行くと、やがて山奥の洞窟に至り、そこには巨大なクモがおり、このクモがすべての怪異の正体だった。激しい戦いの末に頼光がクモの首を刎ねると、その腹からは1990個もの死人の首が出てきた。さらに脇腹からは無数の子グモが飛び出したので、そこを探ると、さらに約20個の小さな髑髏があったという |