2010年 青森ねぶたまつり
2010年8月3日に運行されたねぶたを運行順に紹介します。青森市堤町の国道4号線で撮影しました。 |
2010.8.3 凱旋太鼓2010.8.3に青森市堤町の国道4号線沿いで撮影した"凱旋太鼓"です。日立凱立会が主催しています。凱旋太鼓は、「青森ねぶたは凱旋のねぶた」という思いから付けた名前だそうです。 太鼓の直径3m35cmは、900kg近い牛から剥いだ皮で製作したそうです。昭和55年(1980年)から青森の夜空に力強く響いてきました。 |
2010.8.3 青森市PTA連合会吉備津彦命(きびつひこのみこと)は古代日本の皇族。孝霊天皇の第3皇子で、生母は妃倭国香媛(やまとのくにかひめ)とも(『日本書紀』)、意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)(安寧天皇の皇曾孫)とも伝える(『古事記』)。上述吉備津神社の縁起で、岡山県において広く語り継がれている伝説によると、鬼ノ城(きのじょう)に住んで地域を荒らした温羅(うら)という鬼を、犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来と共に倒し、その祟りを鎮めるために温羅を吉備津神社の釜の下に封じたとされ、これが上田秋成の『雨月物語』中の1編「吉備津の釜」で著名な、同神社の御釜殿(重要文化財)における鳴釜神事の謂われともなっている。この伝説から吉備津彦命は本来は土着の神だったが、神話や系譜を整える際に天皇家の系譜に組み込まれたものとする説がある。一説には、命の家来である犬飼健を犬、楽々森彦を猿、留玉臣を雉と見て、この温羅伝説がお伽話「桃太郎」になったとも言われ、岡山県ではこれをして自県を「桃太郎発祥の地」として宣伝している。ちなみに、吉備津彦命の家来であった犬飼健は犬養氏の始祖で、五一五事件で暗殺された犬養毅首相の祖先であると言われている。 |
2010.8.3 青森自衛隊ねぶた協賛会草履取り平四郎は、懐で温めた下駄を尻に敷いたと勘違いされ額を蹴られた。額から鮮血が滴り落ち、下駄は血に染まった。その下駄を懐中にしまい、常陸の国真壁を後にして京都に出た。平四郎は、かつての主君を見返す為、建仁寺の門を叩いた。草履取りの男が、大名に復讐する方法はただ一つ、高僧大徳となり見返すしかなかった。 やがて師の坊を凌ぐまでになった平四郎からは復讐心は消え失せ、悟道追求の一念だけになり"性西禅師"の法号を賜るまでになった。 名声と賛辞の中、かつての主君、真壁経明との対面を果たした時、血で赤黒く染まった下駄を見せ、一時は恨んだけれどそのおかげで発奮できたと感謝の気持ちを告げた。 |
2010.8.3 県庁ねぶた実行委員会 |
2010.8.3 青森山田学園佐藤四郎兵衛忠信は、義経一行の無事を祈り、わが身の危難も忘れ自ら追手を食い止める役を買って出た。忠信は京へ逃れ、かねてからの思い女四条通の小車という女の許に身を寄せるが、女は鎌倉へ密告してしまう。 それとは知らず寝ていた忠信は不意を襲われ、枕にしていた碁盤を振りかざして敵に立ち向かう。 |
2010.8.3 日本通運㈱ねぶた実行委員会藤原 時平(貞観13年(871年) - 延喜9年4月4日(909年4月26日))は平安時代前期の公卿。藤原基経の子。母は人康親王女。子に保忠、顕忠など。弟に仲平、忠平など。関白藤原基経の長男であり、若くして栄達するが、父の死の時点ではまだ年若く、宇多天皇は親政をはじめ、皇親である源氏や学者の菅原道真を起用した。醍醐天皇が即位すると道真とともに左右大臣に並ぶが、次第に対立し道真を遂に讒言して大宰府へ左遷させた。政権を掌握すると意欲的に改革に着手するが、39歳の若さで死去した。その早すぎる死は怨霊となった道真の祟りと噂された。この場面がねぶたになった。 |
2010.8.3 JRねぶた実行プロジェクトサルタヒコは、日本神話に登場する神。『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する。「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされる。「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神であったとする説もある。 三重県鈴鹿市の椿大神社、三重県伊勢市宇治浦田の猿田彦神社がサルタヒコを祀る神社として名高い。 天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られている。この場合、妻とされる天宇受売神とともに祀られるのが通例である。また、祭礼の神輿渡御の際、天狗面を被った猿田彦役の者が先導をすることがある。 他にも滋賀県高島市の白鬚神社の祭神とされたことから白鬚明神の名でも全国各地に祀られている。また子孫である大田命、内宮の興玉神とも同一視される。 さらに江戸時代に入って「サル」の音から庚申講と結び付けられたほか、垂加神道では「導きの神」として神道の「教祖」とされるなど複雑な神格を持つ。 |
2010.8.3 に組 東芝樊 噲(はん かい)は、中国の秦末から前漢初期にかけての武将。沛県の人。爵位は舞陽侯。諡号は武侯。剛勇の人だったという。もとは犬の屠殺業をしていた。劉邦の反秦蜂起に加わり、生涯仕えて武勲を挙げ、鴻門の会で項羽から身を救うなど活躍する。秦打倒の功績で賢成君に封じられた。また決起以前より劉邦の妻呂雉の妹呂須(りょしゅ)を娶っていたため、将軍の間でも王室の信頼は厚かった。 漢王朝成立後は韓王信や韓信の謀反に同調した陳豨を討伐して、その功績を挙げる。しかし紀元前195年、親友の燕王・盧綰討伐を高祖(劉邦)から命じられるが、ある者の讒言で勅命を受けた陳平によって捕らえられ、周勃と交代される。だが、高祖の死によって釈放された。 孝恵帝6年(紀元前189年)に死去。嫡子の樊伉が舞陽侯を継いだが、呂雉の死を機とした政変により、呂氏一族皆殺しの一環として生母の呂須と共に殺される。のちに側室の子である樊市人(はんしじん)が侯になった。 |
2010.8.3 青森市民ねぶた実行委員会呂 布( ? - 建安3年(198年))は中国後漢末期の武将・群雄。字は奉先。五原郡九原県(現在の内蒙古自治区内)の人。『後漢書』巻75 「劉焉袁術呂布列傳」 第65、『三国志』巻7 魏志「呂布伝」に列伝がある。戦乱の後漢末期にあって群を抜く武勇を誇った。『三国志演義』等、三国志関係の物語等では最強の武将として描かれる。暴虐の限りを尽くす董卓の抹殺を目論む司徒の王允は董卓の信任を受けつつも密かに士孫瑞らと謀議をめぐらしていたが、一方で董卓の側近である呂布とも同郷であったため親しくしていた。あるとき、呂布が董卓に殺されかけた話を王允にしたところ、王允は呂布に董卓暗殺を唆した。初平3年(192年)4月、ついに呂布は自ら刀をふるって董卓を殺害し、その恐怖政治を終わらせた。 |
2010.8.3 ヤマト運輸ねぶた実行委員会海幸彦と山幸彦は、日本神話の一挿話。俗に「海幸山幸(うみさちやまさち)」とも呼ばれる。火遠理命(古事記)・彦火火出見尊(日本書紀)(山幸彦)が、兄の火照命(古事記)・火闌降命(日本書紀)(海幸彦)と猟具をとりかえて魚を釣りに出たが、釣針を失い、探し求めるために塩椎神(しおつちのかみ)の教えにより海宮(又は龍宮)に赴き、海神(豊玉彦)の娘・豊玉姫(豊玉毘売命・とよたまひめ)と結婚、釣針と潮盈珠(しおみちのたま)・潮乾珠(しおひのたま)を得て兄を降伏させた話。 |
2010.8.3 青森菱友会阿倍 比羅夫は、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。658年から3年間日本海側を北に航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。 |
2010.8.3 消防第二分団 アサヒビール時は平安時代。絵仏師の良秀は高名な天下一の腕前として都で評判だったが、その一方で猿のように醜怪な容貌を持ち、恥知らずで高慢ちきな性格であった。そのうえ似顔絵を描かれると魂を抜かれる、彼の手による美女の絵が恨み言をこぼすなどと、怪しい噂にもこと欠かなかった。この良秀には娘がいた。親に似もつかないかわいらしい容貌とやさしい性格の持ち主で、当時権勢を誇っていた堀川の大殿に見初められ、女御として屋敷に上がった。娘を溺愛していた良秀はこれに不満で、事あるごとに娘を返すよう大殿に言上していたため、彼の才能を買っていた大殿の心象を悪くしていく。一方、良秀の娘も、大殿の心を受け入れない。そんなある時、良秀は大殿から「地獄変」の屏風絵を描くよう命じられる。話を受け入れた良秀だが、「実際に見たものしか描けない」彼は、地獄絵図を描くために弟子を鎖で縛り上げ、梟につつかせるなど、狂人さながらの行動をとる。こうして絵は8割がた出来上がったが、どうしても仕上がらない。燃え上がる牛車の中で焼け死ぬ女房の姿を書き加えたいが、どうしても描けない。つまり、実際に車の中で女が焼け死ぬ光景を見たい、と大殿に訴える。話を聞いた大殿は、その申し出を異様な笑みを浮かべつつ受け入れる。 当日、都から離れた荒れ屋敷に呼び出された良秀は、車に閉じ込められたわが娘の姿を見せつけられる。しかし彼は嘆くでも怒るでもなく、陶酔しつつ事の成り行きを見守る。やがて車に火がかけられ、縛り上げられた娘は身もだえしつつ、纏った豪華な衣装とともに焼け焦がれていく。その姿を父である良秀は、驚きや悲しみを超越した、厳かな表情で眺めていた。娘の火刑を命じた殿すら、その恐ろしさ、絵師良秀の執念に圧倒され、青ざめるばかりであった。やがて良秀は見事な地獄変の屏風を描き終える。日ごろ彼を悪く言う者たちも、絵のできばえには舌を巻くばかりだった。絵を献上した数日後、良秀は部屋で縊死する。 |
2010.8.3 マルハニチロ佞武多会歌舞伎舞踊劇。常磐津(ときわず)。本名題『戻橋恋の角文字』。河竹黙阿弥 作。1890年(明治23)10月、東京・歌舞伎座で5世尾上菊五郎の小百合 実は鬼女、初世市川左団次の渡辺綱による初演。作曲 岸沢式佐、振付け初世 花柳寿輔。渡辺綱が夜の一条戻橋で、扇折小百合という美女と道連れになり、女のクドキ模様のうち、これを愛宕山の悪鬼の化身と見破って立回りとなり、その片腕を切り落とす。菊五郎が家の芸「新古演劇十種」に選んだもので、その後は6世尾上梅幸が得意とし、現代に伝わった。小百合のクドキ、見あらわしなどが眼目で、幕切れには鬼女が綱の襟をつかんで宙乗りになる演出もある。 |
2010.8.3 私たちのねぶた自主製作実行委員会岩木山北東面に位置する赤倉山にある「銚子の口」という行場には大絶壁がそそり立ち、険しい行場ゆえに命を落とす行者もいたという。 その岩木山には鬼が住むと言われている。昔、岩木山に住んでいた鬼が人々を悩ましており、 これを帝が知るところとなり、江州(滋賀県)の領主、花輪という者がその鬼を成敗するため都より派遣された。赤倉山の鬼は、新しく中央から入ってきた神仏よりもずっと古くから岩木山に棲んでいた地主神であり国津神である。赤倉山のカミサマや行者たちが今でも赤倉大神や赤倉大権現として拝むのは、鬼神様である。 このねぶたは、赤倉山中での苦行を行う修験者と、赤倉の鬼神の姿を表したものである。 |
2010.8.3 サンロード青森青森県にも深浦・十三を初めとする多くの湊があり、中でも深浦は「風待ち湊」として栄え、中央文化との玄関口であった。板子一枚地獄といわれる航海の中、一時の安らぎの湊でもあった。しかし、時には海賊たちに荷を狙われることもあった。 |