2009年 青森ねぶたまつり
2009年8月6日に運行されたねぶたを運行順に紹介します。青森市柳町通りで撮影しました。 |
2009.8.6 県庁ねぶた実行委員会昔の中国五台山は、非常に気候が悪く人々を苦しめていた。修行でこの地を訪れた文殊菩薩は、気候を変えようと空気を潤すという不思議な力を持つ歇竜石(けつりゅうせき)を手に入れるべく、龍宮城に住む、龍王のもとへ向かった。龍王は一度断ったものの、文殊の強い願いを無下にできず「この重い石を一人で持ち帰ることができるなら差し上げよう。」と答えた。それを聞いた文殊が呪文を唱えると、巨大な歇竜石はあっという間に小さな石ころに変わり、文殊はそれを袖に入れ飄然と去って行った。 |
2009.8.6 ねぶた愛好会約500年前の岩木町で、岩木川の水を引いた杭止堰という用水の取水口があった。田植え時期に村人が水を引こうとして杭止堰に行ったところ、大雨により崩れた土砂が取水口をふさいでいた。懸命の復旧作業も度重なる事故が相次ぎ、作業は一向に進まなかった。それを見た堰神の神官・権太夫は、村人の難儀を救おうと自ら杭止堰の取水口に立ち「われ今は一命を捨て、水神 願わくば志を受納し垂れたまえ」と祈り、わが身を杭に打たせて水底に沈んだ。それ以来堰は崩れることはなかった。 村人たちは、権太夫に深く感謝し、「義人・権太夫」と崇め、杭止神社を建立し、厚くその霊を祀ったという。 |
2009.8.6 ヤマト運輸ねぶた実行委員会2009年8月6日に運行されたねぶたを青森市柳町通りで撮影しました。日本通運・ヤマト運輸はねぶた同士の間隔が狭かったので、二団体まとめてupしました。 |
2009.8.6 青森市PTA連合会937年(承平7年)のこと、会津には子供に恵まれなかった夫婦、伴笹丸と菊世がいた。二人が第六天の魔王に祈った甲斐があり、女児を得、呉葉(くれは)と名付けた。呉葉と両親は京に上った。ここでは呉葉は紅葉と名乗り、初め琴を教えていた。源経基の目にとまり、腰元となりやがて局となった。紅葉は経基の子供を妊娠するが、病の原因が紅葉の呪いであると比叡山の高僧に看破され、結局経基は紅葉を信州戸隠に追放することにした。 956年(天暦10年)秋、紅葉の時期に紅葉は水無瀬(鬼無里)に辿り着いた。経基の子を宿し京の文物に通じ、しかも美人である紅葉は村人達に尊ばれはしたものの、やはり恋しいのは都の暮らしである。経基に因んで息子に経若丸と名付け、また村人も村の各所に京にゆかりの地名を付けた。だが、我が身を思うと京での栄華は遥かに遠い。このため次第に紅葉の心は荒み、京に上るための軍資金を集めようと、一党を率いて戸隠山に籠り、夜な夜な他の村を荒しに出るようになる。この噂は戸隠の鬼女として京にまで伝わった。 ここに平維茂が鬼女討伐を任ぜられ、笹平に陣を構え出撃したものの、紅葉の妖術に阻まれ散々な目にあう。かくなる上は神仏に縋る他なしと、観音に参る事17日、ついに夢枕に現れた白髪の老僧から降魔の剣を授かる。今度こそ鬼女を伐つべしと意気上がる維茂軍の前に、流石の紅葉も敗れ、維茂が振る神剣の一撃に首を跳ねられることとなった。呉葉=紅葉33歳の晩秋であった。 このねぶたは、呉葉が平維茂によって神剣の一撃に首を跳ねられる場面を描いたものである。 |
2009.8.6 消防第二分団 アサヒビール赤壁の戦いは、中国後漢末期の208年、長江の赤壁において起こった曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いである。ねぶたは曹操と蜀の英雄・関羽の対決の場面を描いたものである。 |
2009.8.6 JRねぶた実行プロジェクト役 小角は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。修験道の開祖とされている。後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになった。実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。 舒明天皇6年(634年)に大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。生誕の地とされる場所には、吉祥草寺が建立されている。 17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山(現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。 20代の頃、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。また、高弟にのちに国家の医療・呪禁を司る典薬寮の長官である典薬頭に任ぜられた韓国広足がいる。 文武天皇3年(699年)5月24日に、人々を言葉で惑わしていると讒言され、役 小角は伊豆島に流罪となる。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、茅原に帰るが、同年6月7日に箕面の天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。享年68。 |
2009.8.6 NTTグループねぶた閻羅王が中国に伝わると、道教における冥界・泰山地獄の主である泰山府君と共に、冥界の王であるとされ、閻魔王、あるいは閻羅王として地獄の主とされるようになった。やがて、晩唐代に撰述された偽経である『閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』(略して『預修十王生七経』)により十王信仰と結び付けられ、地獄の裁判官の一人であり、その中心的存在として、泰山王とともに、「人が死ぬと裁く」という役割を担い、信仰の対象となった。現在よく知られる唐の官人風の衣(道服)を纏った姿は、ここで成立した。 日本仏教においては地蔵菩薩と同一の存在と解され、地蔵菩薩の化身ともされている。嘘をついた者は、地獄で閻魔に舌を引き抜かれる刑に処されるという俗説があり、子供を叱る際に使われた。 コンニャクが大好物であるという。東京・文京区の源覚寺にこんにゃくを供えれば眼病を治すという「こんにゃくえんま」像があるほか、各地の閻魔堂でこんにゃく炊きの行事が行われる。 |
2009.8.6 青森県板金工業組合1336年(延元元年/建武3年)、楠木正成が湊川の戦いで敗死してから、楠木氏はしばらくの間鳴りを潜めていた。正成の子楠木正行が成長すると、本拠地である河内国南部で次第に力を蓄え、摂津国南部の住吉・天王寺周辺まで出没し、足利方を脅かすようになった。足利方は本格的な南朝攻撃を決意し、ついに1348年1月に高師直を大将とする大軍を編成して、北上する楠木軍と四條畷に対峙した。 楠木軍は足利方の圧倒的な兵力の前に敗れ、正行は弟の正時と刺し違えて自決した。勢いに乗った高師直は、南朝の本拠吉野(奈良県吉野郡吉野町)に攻め入り陥落させ、後村上天皇はじめ南朝は賀名生(同県五條市)に逃れた。戦後、楠木氏は楠木正儀が後を継ぐ。 |
2009.8.6 日立連合ねぶた委員会天間星の生まれ変わり公孫勝は自由自在に風雨を呼び、まるで竜のように雲に乗れたので入雲竜と呼ばれていた。もともと道士だったが、梁山泊入山後に道術の仙人である羅真人より幾多の法術を学び無敵の力を発揮するようになる。一方、地然星の生まれ変わり樊瑞(はんずい)は山賊の頭領であるにも関わらず道術を使い、用兵の術にも優れていたので混世魔王と呼ばれていた。 ねぶたは、樊瑞が妖術を使い公孫勝に挑んでいる場面を描いたもの。 |
2009.8.6 日立連合ねぶた委員会 戻りねぷた |
2009.8.6 青森山田学園朝比奈 義秀は、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人。父は和田義盛、母は不詳。安房国朝夷郡に領地としたことで朝比奈を苗字とする。朝比奈氏(和田氏一族)の当主。大酒を飲み気持ちよく寝ていた朝比奈を、小鬼達が嘲笑していた。これに腹を立てた朝比奈が、鬼を追いかけて大河を渡ると、そこに地獄の城門がそびえていた。朝比奈は、城門を押し倒そうと門の扉に両手を押し当てた。朝比奈は小鬼にバカにされた怒りで、ついに城門を破った。その勢いで、朝比奈は地獄を征服してしまった。さらに地獄にある全ての酒と山海の珍味を出させ、鬼どもに舞を舞わせた。 すると鬼どもの合唱は「朝比奈を呪って言う。今は力も強く盛んであるが、本当に死んでから地獄に来たら、我ら鬼の餌食になってしまうぞ」と。 時が過ぎればいかなる勇士も死に、地獄へ来れば鬼に責め苦を受ける事になる。これに気づいた朝比奈は、そののちひたすら善を修したという。ねぶたは夢の中で朝比奈が地獄の城門を破って鬼と対峙する場面を描いたもの。 |
2009.8.6 に組 東芝大岡 忠相は、江戸時代中期の幕臣・大名。市政においては、町代の廃止(享保6年)や町名主の減員など町政改革も行なう一方、木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編のため、享保3年(1718年)には町火消組合を創設して防火負担の軽減を図り、享保5年(1720年)にはさらに町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」の小組に再編成した。また、瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などを行う。これらの政策は一部町名主の反発を招いたものの、江戸の防火体制は強化された。 |
2009.8.6 東北電力ねぶた愛好会出雲の鳥髪山(船通山)へ降った建速須佐之男命は、その地を荒らしていた八岐大蛇への生贄にされそうになっていた少女櫛名田比売(奇稲田姫)と出会う。素戔鳴尊は、携えていた十握剣を振るって八岐大蛇をずたずたに切り刻み、なおも尾の方へ切り刻むと中から一振の太刀が出てきた。この太刀は天叢雲剣であり、後に大和武尊が使い草薙剣と名付けられた。 |
2009.8.6 私たちのねぶた自主製作実行委員会平 知盛は自害にあたり、知盛は碇を担いだとも、鎧を二枚着てそれを錘にし、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して入水したとも言われている。共に入水後遺体となるか、あるいは生きたまま浮かび上がって晒し物になるなどの辱めを受けるのを避ける心得である。これに想を得た文楽及び歌舞伎『義経千本桜』の「渡海屋」および「大物浦」は別名「碇知盛」とも呼ばれ、知盛が崖の上から碇と共に仰向けに飛込み入水する場面がクライマックスとなっている。 |
2009.8.6 青森市民ねぶた実行委員会このねぶたは地獄の鬼、鬼卒と護法神の仁王を引き連れた地蔵菩薩閻魔王が、現世の救済のため現れた場面を描いたもの。 |
2009.8.6 サンロード青森直江兼続は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で上杉氏の家老である。このねぶたは「愛染明王」の加護で「越後の龍」と称された上杉謙信の化身に見守られ、「義と愛」をもって戦う文武両道の智将「直江山城守兼続」の勇姿を描いたもの。 |
2009.8.6 青森パナソニックねぶた会素戔鳴が、出雲の地で八岐の大蛇を退治した場面をねぶたにしたもの。 |
2009.8.6 社団法人青森青年会議所摂津大物浦で平知盛の怨霊が源義経を海に引き込もうとした。これに対し義経は、刀を抜いて切り払い、弁慶は五大尊を念じ、法力をもって調伏し、ようやく亡霊を退散させた。これが大物浦の戦いである。 |
2009.8.6 青森自衛隊ねぶた協賛会凌 振(りょう しん)は、中国の小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の登場人物。梁山泊第五十二位の好漢で、地軸星の生まれ変わり。渾名は「轟天雷(ごうてんらい)」。彼が率いる大砲隊の威力から。子母砲、連珠砲など破壊力抜群の大砲を発明、部下を訓練し、砲兵隊の責任者を務め、梁山泊軍の無敵の強さの一因となる。 |
2009.8.6 青森市役所ねぶた実行委員会昔、鳴沢(青森県鰺ヶ沢町鳴沢)に一人の腕のよい刀鍛冶が住んでいた。彼には器量のよい娘がいたが、跡とりがいなかった。そこで、七日の間に十腰(十振)の刀を鍛えられる技量を持った者を娘婿とし、跡を継がせようとした。ある日、鬼王丸という身なりのよい若者が訪ねてきた。そして、作業中絶対に鍛冶場をのぞかないことを条件に、この難題に挑んだ。ところが、不思議なことに何日たっても鍛冶場からは何の音もせず、食事をとっている気配もない。心配になった刀鍛冶は、こっそりと中をのぞいてしまった。するとそこには、恐ろしい形相をした龍が口から火を吐き、刀を鍛えている姿があった。驚いた刀鍛冶は、娘をこんな化け物にはやれぬと、鬼王丸が寝ている隙にでき上がった一腰の刀を抜きとり鳴沢川に投げ捨ててしまった。 約束の日の朝、何も知らない鬼王丸は仕上げた刀を差しだした。一腰、二腰・・・と数えていくが、十腰ない。鬼王丸は落胆し、そのまま東へ姿を消したのであった。十腰内という地名は、この話が由来になっているという。 |