2008年 青森ねぶたまつり
2008年8月6日に運行されたねぶたを運行順に紹介します。青森市柳町通りで撮影しました。 |
2008.8.6 県庁ねぶた実行委員会2008.8.6に青森市柳町通りで撮影した"県庁ねぶた実行委員会"です。題材は、日光東照宮に祭られている仁王像を彫った左甚五郎をねぶたにしたもの。 |
2008.8.6 県庁ねぶた実行委員会戻りねぶた2008.8.6に青森市柳町通りで撮影した"県庁ねぶた実行委員会"戻りねぶたです。題材は、日光東照宮に祭られている仁王像を彫った左甚五郎をねぶたにしたもの。 |
2008.8.6 ねぶた愛好会仏舎利を盗んで逃げた捷疾鬼を追いかけて取り戻したことから、韋駄天は足の速い神とされる。 そこから足の速い人を言い、非常に速く走ることを「韋駄天走り」と言うようになった。 |
2007.8.6 ヤマト運輸ねぶた実行委員会魯智深は、天孤星の生まれ変わりで、序列は梁山泊第十三位の好漢。渾名は花和尚。花和尚の「花」は刺青を指し、全身に刺青があったことが名前の由来である。年齢は不詳だが林冲と義兄弟の契りを結んだ際、彼が兄となっているため林冲より年上である可能性が高い。柳の木を根っこごと逆さまに引き抜き、素手で山門の仁王像をバラバラに粉砕してしまうほどの怪力の持ち主。登場した当初は文盲であったが、後に再登場した際は字が読めるようなっている。少々思慮は浅いが義侠心に厚く困っている人間を見ると自身の利害は関係無しに助けずにはいられない。また同じ猪突猛進タイプの好漢武松や李逵が無関係な人間や弱者にも容赦のない所があるのに対し、魯智深は弱い立場の人間に拳を向けることはなかった。 |
2008.8.6 青森市PTA連合会源 義平は、平安時代末期の武将。源義朝の長男。通称は鎌倉悪源太。義平の風貌はとても下人風情とは見えずに不審がられ、宿舎の主人が二人の食事の様子をのぞき見ると下人のはずの義平が主の膳を景澄が下人の膳を食べていた。さてはと密告され、18日夜に難波経遠が300騎を率いて宿を取り囲んだ。義平は飛び出すや石切の太刀を抜いて4、5人を斬り捨てて逃げ去ってしまった。その後、義平は近江国に潜伏するが、25日に石山寺に潜んでいたところを発見され、難波経房の郎党に生け捕られた。 義平は六波羅へ連行され、清盛の尋問を受けた。義平は「生きながら捕えられたのも運の尽きだ。俺ほどの敵を生かしておくと何が起こるかわからんぞ、早よう斬れ」と言ったきり、押し黙ってしまった。義平は六条河原へ引き立てられた。太刀取りは難波経房。「俺ほどの者を白昼に河原で斬るとは、平家の奴らは情けも物も知らん。阿倍野で待ち伏せて皆殺しにしてやろうと思ったのに、信頼の不覚人に従ったためできなんだのが悔やまれるわ」と憎まれ口を叩くと、経房へ振り向き「貴様は俺ほどの者を斬る程の男か?名誉なことだぞ、上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言った。「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と問うと、「すぐに喰らいつくのではない。雷になって蹴り殺してやるのだ。さあ、斬れ」と答えて義平は斬首された。享年20。それから8年後、難波経房は清盛のお伴をして摂津国布引の滝を見物に行った時、にわかに雷雨となり、雷に打たれて死んだという。PTAねぶたは、この史実をねぶたにしたものである。 |
2008.8.6 凱旋太鼓2008.8.6に青森市柳町通りで撮影した"凱旋太鼓"です。日立凱立会が主催しています。凱旋太鼓は、「青森ねぶたは凱旋のねぶた」という思いから付けた名前だそうです。 太鼓の直径3m35cmは、900kg近い牛から剥いだ皮で製作したそうです。昭和55年(1980年)から青森の夜空に力強く響いてきました。 |
2008.8.6 消防第二分団 アサヒビール天下統一を目指す織田信長の野望をねぶたに表したもの。 |
2008.8.6 JRねぶた実行委員会平将門の遺児・瀧夜叉姫は、父の意志を継いで天下を狙い、相馬の古御所に徒党を集めていた。この噂を聞きつけた、大宅太郎光圀が瀧夜叉姫を襲わんとやって来た。姫は妖術を駆使して、迫力の大髑髏を出現させるが、勇士・光圀は泰然として驚く気配もない。この時、娘瀧夜叉を救うべく青紫の炎の中から古御簾の影に将門の神霊が現れた。 (山東京伝作・善知鳥安方忠義伝より) |
2008.8.6 JRねぶた実行委員会 戻りねぷた平将門の遺児・瀧夜叉姫は、父の意志を継いで天下を狙い、相馬の古御所に徒党を集めていた。この噂を聞きつけた、大宅太郎光圀が瀧夜叉姫を襲わんとやって来た。姫は妖術を駆使して、迫力の大髑髏を出現させるが、勇士・光圀は泰然として驚く気配もない。この時、娘瀧夜叉を救うべく青紫の炎の中から古御簾の影に将門の神霊が現れた。 (山東京伝作・善知鳥安方忠義伝より) |
2008.8.6 青森県板金工業組合1185年(文治元年)冬、源頼朝の討伐を受け、義経・弁慶らは吉野山に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前と別れ、東国へ脱出したと言われている。このねぶたは風雪の奈良県吉野山中で義経の鎧甲で身を固め、義経の身代わりとなった側近、佐藤忠信と僧兵の大将横河覚範との一騎討ちの場面である。 |
2008.8.6 日立連合ねぶた委員会菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。まず道真の政敵藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死すると、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923年)薨去)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)卒去)が次々に病死。さらには延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行う。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。 |
2008.8.6 青森山田学園元弘2年(1332年)、後醍醐天皇は、先の元弘の変に敗れ隠岐へ遠流となる。この時高徳は、播磨・備前国境の船坂山において、一族郎党二百余騎で佐々木導譽ら率いる五百騎の天皇護送団を強襲、後醍醐天皇の奪還を画策するが、天皇一行の移動ルート誤判によって失敗に終わる。 高徳は天皇一行を播磨・美作国境の杉坂まで追うものの、その時既に天皇一行は院庄(現・岡山県津山市)付近へ達しており、完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまった。その際、高徳唯一人が天皇の奪還を諦めず、夜になって院庄の天皇行在所・美作守護館の厳重な警備を潜り侵入する。やがて天皇宿舎付近へ迫るも、それまでの警備とは段違いな警護の前に天皇の奪還を断念、傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は古代中国の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたという。 因みに、朝になってこの桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は何と書いてあるのか解せず、外が騒々しい為に何事か仔細を聞いた後醍醐天皇のみこの漢詩の意味が理解できたという。 この時彫られた「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」の言葉通り、翌年に名和長高ら名和氏の導きにより天皇が隠岐を脱出、伯耆国船上山において挙兵した際には、高徳も養父とともに赴いて幕府軍と戦い戦功を挙げたとされるが、その論功行賞の記録には高徳の名前が無く、児島高徳否定説の根拠とされている。 |
2008.8.6 青森山田学園 戻りねぷた2008.8.6に青森市柳町通りで撮影した青森山田学園の戻りねぷたです。 |
2008.8.6 に組 東芝川中島の戦いは、十二年の長きにわたって五度展開されたが、四度目の一騎討ちが名場面として有名である。馬上から信玄に切り込む謙信、軍配で太刀を受け止める信玄。 越後の龍・上杉謙信と甲斐の虎・武田信玄の戦国時代屈指の武将同士の壮絶な戦いが、終わってみれば謙信は惨澹たる損害を出し、信玄は山本勘助をはじめ多くの重臣を失っていた。 これを機に共に天下統一の夢を果たせず、二人は歴史の表舞台から去っていく。 |
2008.8.6 マルハニチロ佞武多会李逵は、中国の小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の登場人物。天殺星の生まれ変わりで、梁山泊第二十二位の好漢。渾名は黒旋風で、二挺の板斧(手斧)を得意とする。李逵自身の剽悍性とその怪力、色の黒さからよく「鉄牛」とも呼ばれる。怪力で武芸に優れた豪傑であるが、性格は幼児がそのまま大きくなったように純粋であり、物事を深く考えることは無く我慢もきかないため失敗も多い。宋江に非常に懐き、宋江を絶対的存在と認識しており、そのためなら命を投げ出すことも辞さず、少しでも宋江の役に立ちたいと思うがため、何でも首を突っ込みたがる傾向にある。逆に宋江以外の権威は彼にとって全く無価値で、朝廷への帰順を考える宋江としばしば激しくやり合う。一方で幼児独特の残虐性や善悪の区別の曖昧さもそのまま引き継いだために、人を殺すことをなんとも思っておらず、無関係の人間を巻き添えにしたり女子供を手にかけることも厭わない。それゆえ宋江や晁蓋の叱責を買うことも多い。 仲間意識は強く、特に同じ豪傑タイプの鮑旭や焦挺等とは非常に仲がよいが、入山時いざこざがあった朱仝とは不仲で平和的な性格の楽和も李逵が苦手らしい。また彼の保護者的立場である戴宗や、呉用、燕青等機転の利く人間には頭が上がらない。また、対集団の戦いでは凄まじい実力を発揮するが、正式の武芸を習った事はないのか、達人級の相手との一騎討ちとなると、苦戦したりあっさり敗れる事も多い。水練は苦手でまったくのカナヅチ。 |
2008.8.6 青森菱友会金光上人は鎌倉時代前期に、念仏−浄土宗を東奥に広めた僧と言われている。金光上人は"南無阿弥陀仏"を唱えると救われる、という浄土宗の教えに入ってゆき、やがて法然と出会い、師と仰ぐようになった。そして念仏布教の旅に出た。 金光上人の旅は、苦労の連続。ある夜阿弥陀如来が上人の夢枕に立ち、「外ヶ浜(青森湾岸)に行きなさい。そこで逢うことができるでしょう」と告げられた。 その頃、外ヶ浜のある川から"夜な夜な光物がでる"という話があり、旅先でそれを聞いた上人はその川に行き、川底から阿弥陀如来を発見した。これが青森県東津軽郡蓬田村を流れる阿弥陀川の伝説です。川のほとりには記念碑が造立されている。 |
2008.8.6 東北電力ねぶた愛好会一の谷の合戦では源平両軍入り乱れての激戦が繰り広げられ、一進一退の攻防が続く中、一の谷の裏手、人や馬が駆け降りることのできない断崖絶壁の鵯越に立った義経は、今が戦機と見て「鹿が降りられるところを馬が降りられないはずはない 自分を手本にせよ」と先頭をきって一気に急な坂を駆け降り攻め入った。義経の奇襲戦法を期に形勢は一気に源氏軍に傾き、浮き足だった平家軍はわれ先に海上へ逃れ、源氏軍が勝利を果たした。戦略的に優れた武将であった源義経は、平家滅亡の大きな功労者となり、国民的英雄となった。 |
2008.8.6 私たちのねぶた自主製作実行委員会ねぶたは、青森市横内城を築いた堤弾正光康が荒れ狂う川や龍と闘う場面を描いた。 |
2008.8.6 青森市民ねぶた実行委員会「覇邏王」(ファラオ)とは、古代エジプトの王の事である。古代エジプト第十九王朝の開祖、ラムセス一世の孫で、三代目の王「ラムセス二世」は、六十年以上ファラオの位にあり、彼の統括した時代は、エジプト帝国で、最も栄えた黄金時代であった。ラムセス二世は戦に強く、自らが太陽神ラーの子孫であるとして、神格化した最強の王と言われている。体格は非常に大柄で専用の強弓は王以外、誰も引く事が出来なかったと言われた優れた戦士であった。 |
2008.8.6 サンロード青森八之太郎は、山仕事に出かけた先で、喉を潤すため谷川の水を飲んだ後、ふと水面を見ると自分の姿が大蛇になっているのに気づいた。八之太郎はそれを大変悲しみ、谷川を堰き止めて十和田湖を作り、そこの主となった。一方、南祖坊は長い全国行脚の途上、神様からお告げを受け、十和田湖を永住の地とすることにした。 それを見た八之太郎は「われこそは、この湖の主なり」といって南祖坊に襲いかかった。 この題材は、十和田湖の湖水から出でて襲いかかる大蛇の姿をした八之太郎と、それに応戦する南祖坊との対決の場面である。 この対決に敗れた八之太郎は、秋田県にある八郎潟の主になったと言われている。 |
2008.8.6 青森パナソニックねぶた会義経千本櫻の主人公は源 義経だが、彼はいわば多数の登場人物を繋ぐ扇の要のような存在で、物語の主体となるのは源平合戦で滅びたはずの敵平知盛・平維盛・平教経、吉野の庶民一家そして義経家臣佐藤忠信の偽者(狐忠信)である。この為あらすじも、平知盛・吉野の一家・偽忠信それぞれを主役とした三つの筋が交互に上演される形態となっている。もともと悲劇の英雄として人気の高かった義経伝説に、優れた作劇がされた本作は大当たりとなり、後世『菅原伝授手習鑑』『仮名手本忠臣蔵』と共に義太夫狂言の三大傑作のひとつに数えられるようになった。 |
2008.8.6 社団法人青森青年会議所用明天皇の子、厩戸王子は穴穂部王子によって父や兄弟を殺害されやむなく大和を後にした。数年が経ち、風の便りで穴穂部王子が即位し大王になったと聞き大和に戻る事を決意した。一方、穴穂部大王は、仏教徒を集め処刑を繰り返し、弾圧を強めていた。ある日、一群の人々が数珠つなぎにされた姿で、柵の中央に引き出された。すると柵の一方が開かれ、豹の群れが走りこみ仏教徒達の喉を噛み裂き殺戮していた。すると黒駒にまたがり厩戸王子が現れ、次々と豹の首をはね、仏教徒たちを柵の外へ逃がし、雑兵を切り捨て、穴穂部大王を一刀両断した。その後、大和国は平和になり厩戸王子は即位し、聖徳天皇となった。 |
2008.8.6 日本通運㈱ねぶた実行委員会安倍晴明は、平安時代の最も有名な陰陽師の一人である。当時最先端の呪術・科学であった「天文道」や占いなどの陰陽道の技術に関して卓越した知識を持ち、天皇・平安貴族たちの信頼を受け、数多くの伝説的逸話を生んでいった。また、異流派の陰陽師、蘆屋道満とは常に対立する関係にあった。 |