2004年 青森ねぶたまつり
2004年8月5日に運行されたねぶたを運行順に紹介します。青森市八甲通りで撮影しました。 |
2004.8.5 社団法人青森青年会議所源頼光が酒呑童子を討伐した後、自分の屋敷で頼光四天王と平井保昌とともに宴を催していたところ、平井(または四天王の1人・卜部季武)が、羅城門に鬼がいると言い出した。四天王の1人・渡辺綱は、王地の総門に鬼が住む謂れはないと言い、確かめるために鎧兜と先祖伝来の太刀で武装して馬に乗り、従者も従えずに1人で羅城門へ向かった。九条通に出て羅城門が正面に見えてきた頃、急に激しい風に見舞われ、馬が動かなくなった。綱が馬から降りて羅城門へ向かうと、背後から現れた鬼に兜をつかまれた。すかさず綱が太刀で斬りつけたが、逆に兜を奪われた。綱の太刀と鬼の鉄杖が激しくぶつかり合った末、綱はついに鬼の片腕を斬り落とした。鬼は「時節を待ちて、取り返すべし」と叫んで、空を覆う黒雲の彼方へ消えて行ったという。 |
2004.8.5 ヤマト運輸ねぶた実行委員会今から約800年前、本州最北端の三廐村にたどり着いた義経主従は北海道を目前に荒れる津軽海峡に行く手を阻まれた。義経は岩に座り、守神の小さな観音様に三日三晩一心に祈り続けた。暁の項、長い杖を手にした白衣白髪の老人が姿をあらわし義経に告げた。「汝の願いを聞き届け、三頭の神通力を備えし龍馬を使わそう。それに乗り海を渡るべし」これぞ観世音のお告げと義経は感涙し、感謝の祈りを捧げた。一行はその龍馬に乗って無事海を渡る事ができたと伝えられている。 このねぶたは北へ北へ逃げ延びた源義経主従一行が北海道へ渡ったと語り継がれる、ロマンを秘めた義経伝説を題材とした物です。三廐村の海岸には、今でも「廐石」と呼ばれる大きな岩礁があり、三頭の龍馬がつながれていたという三つの洞が打ち抜かれています。 |
2004.8.5 NTTグループねぶた源頼朝に追われ九州へ落ちる義経から形見に初音の鼓を託された静御前は、泣く泣く別れた途端、鎌倉方の追っ手、逸見藤太に捕われてしまった。ここに忽然とあらわれた義経の家来、佐藤忠信が逸見藤太たちを散々に蹴散らして静御前を救い、その道中のお供をすることになるが、実はその忠信は初音の鼓に張られている1000年も生き続けてきた狐夫婦の皮を慕ってやってきた子狐の化身であった。 この図は、歌舞伎三大名作の一つ義経千本桜『伏見稲荷鳥居前』の場面である。 |
2004.8.5 消防第二分団 アサヒビール平安時代中期、奥州に「呉葉」という絶世の美女がいた。 やがて京に上り名も「紅葉」と改め源経基の寵愛を受けるが女の儚き野望を抱き信州戸隠山中に流されてしまった。いつしか「紅葉」は山賊と化し人々を襲い身も心も鬼女となっていた。やがて噂を聞いた冷泉天皇は余吾将軍、平惟茂に紅葉退治を命じる。絶世の美女に生まれたが故の悲しい運命か、三十三年の儚い命であった。 惟茂は哀れんで「紅葉」を手厚く葬ったという。 |
2004.8.5 サンロード青森8世紀の末、延暦5年桓武天皇によって東北蝦夷征伐の令が下され、征夷大将軍・紀古佐美は日高見国へ攻める。 しかし、蝦夷の将軍「大墓公 阿弖流為」の抵抗に、壊滅的な敗北に終わった。朝廷は、三度目の進攻に坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ十万の兵を以って北進し、ついに蝦夷を平定した。 阿弖流為は、盟友の「盤具公 母礼」と共に田村麻呂に従い京に上るが斬首されてしまう。 後に、田村麻呂は蝦夷たちの霊を鎮めるため、清水寺を建立したという。 岩手県胆沢の蝦夷の英雄 「阿弖流為」は、東北人の魂の炎として今なお、燃えつづけている。 |
2004.8.5 JRねぶた実行委員会花果山の石から生まれた石ざるは、さるの群れの中からぬきん出て、谷川の水源にあった水簾洞を発見し、全群の王となって暮らしていた。 ある日、この世には「死」があるということを知って悲しみ、不老長生を求めて、仙人に弟子入りする。そして、このとき「孫悟空」という名を授かり、修業を積んだ。「七十二の変身の術」と「きんと雲」を乗りこなす力を得、さらには、「如意棒」という武器も手に入れた。 ところが、ある時、閻魔帳に自分の寿命が記されている事を知った孫悟空は、怒り心頭で地獄に乗り込むのだった。 後に、斉天大聖と号し、天界でも大暴れする孫悟空だが、お釈迦様に捕らえられ、五行山に閉じ込められてしまう。これが、三蔵法師玄奘によって救われ、以来、そのお供となって天竺への旅が始まるのである。 ねぶたは、孫悟空が「自分の命は終わらない、不死身なはず。」と閻魔大王に挑んで地獄で大暴れする場面である。 |
2004.8.5 東北電力ねぶた愛好会安宅の関は、石川県小松市の日本海側にある安宅に守護、富樫氏が設けたと言われる関所。如意の渡しでのエピソードを元にした、源義経が武蔵坊弁慶らとともに奥州藤原氏の本拠地平泉を目指して通りかかり弁慶が偽りの勧進帳を読み義経だと見破りはしたものの関守・富樫泰家の同情で通過出来たという、歌舞伎の「勧進帳」でも有名。 『兵部式』では安宅駅、『義経記』では安宅の渡、『八雲御抄』では安宅橋と記述があるのみ。安宅関と記載のあるものは謡曲『安宅』のみで、ここに関所があったかどうかの歴史的な実在性は疑問視されている。 |
2004.8.5 青森市PTA連合会仏教では、世界の中心には弥山がそびえ立ち東・西・南・北を、四天王が守護する。 四天王の怪力は悪を制し善を守るという意味であり、善はこの門を通ることができても悪は決して通さないという意味がある。二天とは、四天王のうち二神を安置する場合このように称する。ねぶたは、増長天と持国天を表現したもの。 増長天は南方を守護し、煩悩、障りを祓い、我々の持つ潜在的な力を引き出し運命好転を守護する。 持国天は東方を守り、国を支え持ち、大威徳があるとい言われる。 |
2004.8.5 藤本建設2004.8.5に青森市八甲通りで撮影した"藤本建設の出世大太鼓"です。昭和47年(1972年)、藤本建設の初代社長が青森からも元気を発信すべく日本一大きい太鼓の製作に着手。翌、昭和48年(1973年)大太鼓が完成。「出世大太鼓」と名付けられ、その年初めてねぶた祭に参加しました。平成5年から2年間は、長年使用したことで太鼓の皮が薄くなったため、太鼓の出陣を休止。平成7年、再びねぶた祭に参加し現在に至ります。毎年8月4日、5日の2日間、出世大太鼓で青森ねぶた祭に参加しています。 |
2004.8.5 青森市民ねぶた実行委員会ある時、唐の6代皇帝玄宗がマラリアにかかり床に伏せた。玄宗は高熱のなかで夢を見る。宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間(618年-626年)に官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた。 夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった。 玄宗は、鍾馗の絵姿には邪気を祓う効力があるとし、世の中に広めさせた。 |
2004.8.5 日立連合ねぶた委員会鎌倉の兄頼朝の勘気にふれた源義経は、九州へ落ちのびるため、摂津国大物浦から船に乗ろうとしている。義経の伴っている静御前をここから都へ帰すことにする。静は弁慶の言葉に別れの舞を舞い、涙ながらに別れていく。いよいよ船が海上へ出るとにわかに黒雲があらわれ、大嵐となる。船子どもが祈るうちに、壇ノ浦で鎧姿の亡霊があらわれる。義経がかつて海中に滅ぼした新中納言平知盛の亡霊で、義経の一行に襲いかかる。しかし、弁慶の法力にはばまれ、海上はるかに退散する。義経の船は、ふたたび大物浦へ吹き戻される。 |
2004.8.5 県庁ねぶた実行委員会怪憎・武蔵坊弁慶は、太刀一千本刈りの宿願を果たすべく、夜な夜な京の都の辻々で、侍たちから刀を奪い取っていた。ある夜更け、弁慶が五条大橋に差し掛かると、何処からともなく、優しい横笛の音色が流れてきた。不審に思う弁慶の眼前に、白綾の被衣で顔を覆う小柄な男が現れた。その男の腰に配した黄金作りの太刀を見るや、弁慶は一千本目の太刀に相応しいと、長刀を斬り上げ奪い取ろうとするが、男は身のこなしも軽やかに欄干を飛び渡り、弁慶の攻撃を燕のような早業で受け流す。翻弄された弁慶は、勢い余って欄干にぶつかり、あざやかに廻転し、水しぶきをあげて鴨川に転落した。果たしてこの男こそは、悲運の英雄として後世に名を残す後の源久郎判官義経…牛若丸であった。 このねぶたは、弁慶が生涯にわたり義経に忠節を尽くす機縁となった主従二人の一騎打ちの場面である |
2004.8.5 青森県板金工業組合鉄天王晁蓋、中国伝奇小説『水滸伝』に登場する人物で身体中に刺青を施し、王倫に次いで梁山泊の二代目の首領となった英雄である。鄆城県下に、東渓村、西渓村の二村があり、西渓村に鬼が出て人々を悩ましていた。旅の僧侶が青石の宝塔を建立し鬼を追い払うと、今度は晁蓋の住む東渓村に鬼が現れるようになった。怒った晁蓋はある夜、その大きな石塔を一人で軽々とかかえ上げ東渓村に移し換え、鬼を追い出したのである。 「塔を托しさまと、財を人に施すこと毘沙門天の利益に似たり」と、この時以来、晁蓋は人々から托塔天王とあだ名されるようになった。托塔天王とは毘沙門天の別称である。 |
2004.8.5 青森市役所ねぶた実行委員会平家討伐後、兄頼朝との確執で奥州平泉へ逃れた源義経と武蔵坊弁慶ら数名の家臣。頼朝は追討の手を緩めず、文治五年(1189年)、義経をかくまっていた藤原泰衡に命じ、兵百をもって義経の居住する衣川館を襲撃する。 これに対し僅か八名で奮戦する弁慶であったが、最後には数十本もの矢を全身に受ける。 それでも弁慶は長刀を杖に仁王立ちとなり、その威容に恐れた敵兵は近づくことができなかったと云われる。 このとき義経も自害し、共に三十年余りの短い生涯を閉じることとなる。 |
2004.8.5 青森マルハ佞武多会高天原から出雲へ下りた素戔嗚尊は、簸の川上流で、老夫婦が嘆き悲しんでいるのに出会った。毎年八岐大蛇が現われ、娘を一人ずつ呑み、すでに七人を失っているとのこと。最後に残された奇稲田姫の身を案じ、泣いているという。 素戔嗚は、強い酒を入れた酒がめを用意させ、待ちぶせた。 そこに恐ろしい姿の大蛇があらわれ、酒を次々と飲み干し酔いつぶれて寝てしまった。素戔嗚はこのときばかり剣をぬき、大蛇をたたき斬った。尾を斬ったとき剣先に当たるものがあり、中を見てみると一振の太刀が出てきた。素戔嗚が姉の天照大神に献上したこの太刀こそ、後に三種の神器の一つといわれる名剣草薙の剣である。 |
2004.8.5 青森パナソニックねぶた会阿倍 仲麻呂は、奈良時代の遣唐留学生。文武天皇2年(698年)、阿倍船守の長男として大和国に生まれ若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年)、多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。同期の留学生には吉備真備や玄昉がいた。唐の太学で学び科挙に合格し、唐の玄宗に仕える。天平勝宝4年(752年)衛尉少卿に昇進する。この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐する。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は清河らとともに、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図った。 しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流される。結局、仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)には長安に帰着している。この年、安禄山の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は行路が危険である事を理由に清河らの帰国を認めなかった。 仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、天平宝字4年(760年)には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間もハノイの安南都護府に在任し、天平神護2年(766年)安南節度使を授けられた。最後は潞州大都督(従二品)を贈られている。結局、日本への帰国は叶えられることなく、宝亀元年(770年)1月に73歳の生涯を閉じた。 |
2004.8.5 青森山田学園安倍 晴明は、平安時代の陰陽師。平安時代では、最先端の学問(呪術・科学)であった「天文道」や占いなどを、体系としてまとめた思想としての陰陽道に関して、卓越した知識を持った陰陽師ともいわれ、当時の朝廷や貴族たちの信頼を受け、その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んでいった。 |
2004.8.5 青森菱友会延暦年中、坂上田村麿が蝦夷の長 大丹丸[大丈丸、大嵩丸とも]を討ち取り、その首を猿賀山の森に埋めた。後にこの森は大丹森(現・小田森)と称されるようになった。この故事により、毎年正月、森にある大杉の枝に鬼の面を描いて懸け、弓で射る行事が行われるようになったという。その後、大浦為信公が猿賀権現(現・猿賀神社)を参詣し、祈願所にしたいと申し出で、社殿を修復された。以降正月十一日に、境内の大樹に巨大な鬼面を懸け、大きな弓でこれを射って、悪魔退散、国家安穏を祈願する祭事となったと言われる。 尾上町の猿賀神社では、毎年春に鬼面奉射という神事が行われている。現在は、その日程が崇敬会大祭の五月三日に移されたが、祝詞奏上後、宮司により二矢放たれ鬼面を割り、更に太刀をもって打ち砕くという神事が古式ゆかしく行われている。 |
2004.8.5 日本通運㈱ねぶた実行委員会神武東征は、初代天皇である神武天皇が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話である。 |
2004.8.5 ねぶた愛好会平安時代中期、奥州に「呉葉」という絶世の美女がいた。 やがて京に上り名も「紅葉」と改め源経基の寵愛を受けるが女の儚き野望を抱き信州戸隠山中に流されてしまった。いつしか「紅葉」は山賊と化し人々を襲い身も心も鬼女となっていた。やがて噂を聞いた冷泉天皇は余吾将軍、平惟茂に紅葉退治を命じる。絶世の美女に生まれたが故の悲しい運命か、三十三年の儚い命であった。 惟茂は哀れんで「紅葉」を手厚く葬ったという。 |