2003年 青森ねぶたまつり
2003年8月5日に運行されたねぶたを運行順に紹介します。青森市アスパム近くで撮影しました。 |
2003.8.5 青森ナショナルねぶた会雅楽は五世紀の中頃、新羅から伝わったのが始まりといわれる。やがて、この日本初の外来音楽は聖徳太子を始め公家たちに重用され発展した。大宝元年には雅楽寮が制定され、以来時の権力者たちによって継承されてきた。春日大社、厳島神社、鶴岡八幡宮など各地に伝えられているが、青森県にも多数の舞楽面が残されている。ねぶたの場面は、中国北斉の蘭陵王が美男のため味方の志気が上がらず、戦いに向かう時には常に雄猛な面を被ることで兵の士気を高揚させ、連戦連勝を飾ったという故事を舞楽にしたものである。 |
2003.8.5 ヤマト運輸ねぶた実行委員会肥後の豪族の遺児「尾形周馬弘幸」は『地雷也』と名乗り、義賊団の頭となる。そして越後妙香山の仙人からガマの妖術を授かり、各地で悪人をこらしめつつ家の再興をめざした。ところが妙香山で地雷也に退治された大蛇の執念によって手下の夜叉五郎が悪賊大蛇丸となり、地雷也を襲う。そこで地雷也はナメクジの妖術を得た美女・綱手(つなて)を妻として悪賊大蛇丸に戦いをいどむ場面。このねぶたは、蟇(ひきがえる)、大蛇、ナメクジの「三すくみ」の妖術乱闘の場面を題材としたものです。 |
2003.8.5 社団法人青森青年会議所伊勢の国鈴鹿山は、昔から鬼が棲息しているという伝承があった。山に棲む鬼人大獄丸が暴威を振るうために、一帯は人通りがなくなった。事態を重く見た朝廷は、坂上田村麿に討伐の勅命を下した。しかし、妖術にたけた大獄丸は雷鳴を轟かせ、峰全体を黒雲で覆った。なす術がなく、田村麻呂は軍勢を京都に引きあげさせ、ひとり鈴鹿山に入り、大獄丸を迎え撃った。分身の術を使って数千の鬼と化し、激しく抵抗したが、田村麿の投げた霊剣に倒れ首をはねられた。 しかし、霊が一本の剣に宿ってふたたび甦るのである。天竺から日本に立ち戻り、陸奥国、青森の霧山が岳に難攻不落の城を建て悪行を繰り返した。田村麿は再度死闘をくり広げ斬り落とした。大獄丸の首は、空中高く舞い上がり、田村麿の兜に噛み付いて死んだ。その後中世における三大妖怪のひとりに挙げられる強大な鬼神として伝えられている。 |
2003.8.5 青森山田学園田原籐太秀郷の子孫が数流に分かれ、各地で繁栄した。そのひとつが蒲生家である。甲州(現在の山梨県日野町)にその居を構えていた。蒲生氏が築いた音羽城の背後には、宝殿山(猪鼻山)があった。武勇で名高い蒲生家 蒲生貞秀の家臣、土岐元貞が猪鼻山に出没する魔王をみごとに投げ倒した勇ましい姿である。 |
2003.8.5 日立連合ねぶた委員会ある時、唐の6代皇帝玄宗がマラリアにかかり床に伏せた。玄宗は高熱のなかで夢を見る。宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間(618年-626年)に官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた。 夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった。 玄宗は、鍾馗の絵姿には邪気を祓う効力があるとし、世の中に広めさせた。 |
2003.8.5 青森県板金工業組合不動明王は「心の中の悪へ怒りを向けて諫める」と言う、明王の功徳を最もよく表している仏である。 怒りの顔に鋭い剣を持つ勇猛な姿をしているが、本当の怒りは人間の心の汚れに向けられている。一方、龍王は水中に住み、雲を呼び雨を降らす力を持つと信じられ、釈尊の説法を聞きに来た八大龍王は、釈迦如来の待者となっている。 |
2003.8.5 青森市民ねぶた実行委員会このねぶたは、武蔵の前に立ちはだかる、最初で最後の恐るべき剣豪長刀を振るう燕返しなる必技をもつ巌流佐々木小次郎との宿命的な果し合い、「巌流島の決闘」での激突場面を現したものです。 |